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九章 映画
「旦那様! 大変です!」
昼食の席、メイド長の真樹さんが慌てて食堂へ駆け込んで来た。
「どうした?」
「港町で『切り裂き魔』が出たそうです! 警察の方が、旦那様と、優様と、透様に、事情聴取したいと言って屋敷まで来ています!」
「そうか。優さん、透さん、行きましょう」
「は、はい」
「はい」
久遠寺が醜く笑う。人の不幸のなにが面白いのか。
「ねえ、水無瀬さん」
「なんや」
「目の見えない男とどうやって寝るの?」
「枕くっつけて身体も引っ付けるだけやで」
「ッチ、カマトトぶってんじゃねえよナナフシ女が」
久遠寺が食事を始めたが、私は特に咎めたりはしなかった。
「文香様、お食事が冷めてしまいますから、どうぞお召し上がりください」
「お気遣いありがとうございます。私は紫月さんを待ちますから」
「かしこまりました」
由香さんはキッチンに行ってしまった。私は携帯している本を開いた。解剖学用語の本だ。カバーはシンプルなものに変えて中身はわからないようにしている。難解だ。献体と対峙した際の緊張は、きっと想像を簡単に超える。本を読んで覚悟を決めた、つもりになっているだけだ、私は。
「ただいま」
「おかえりなさい」
暫く本を読んでいると、紫月さんと原田夫妻が帰ってきた。
「困ったね、原田さん達が港町で聞き込みをしていたからという理由で来たらしい。それといつもの犯行予告があったそうだ」
私は重大なことを見落としていた。
「犯行予告って・・・」
「『ただし、罪人は皆、死ぬ』だよ。食事の席には相応しくない話だ。知りたいならあとで聞かせてあげよう」
紫月さんと原田夫妻が食事を摂り始めたので、私も食事を始める。
「ん?」
「どうしたんですか?」
「まさか、私を待っていたのかい?」
「はい」
「フフッ、平成の子らしくない」
「平成元年生まれですね、確かに」
食事を終える。私は一度自室に戻って食後の歯磨きをしてから紫月さんの自室に行った。ノックをするかどうか少し迷って、
「紫月さん、入ります」
と言って、合鍵で部屋に入った。
「来ると思った」
紫月さんが笑う。
「混乱して今まで忘れていました。平成の切り裂きジャックは犯行予告を残していたんですね」
「そう。文末に必ず『ただし、罪人は皆、死ぬ』とある。被害者の手に握らせているようだ。内容は公表されていないがね」
「毎年被害者を出しているのに、全国で報道されていない・・・」
「警察の面子かな? その辺りのことは私にもわからないよ」
「事情聴取ではなにを?」
「『相手が誰でも容赦はしない』と書いてあったそうだ。事実、姪の誠は港町から離れたこの島の屋敷で遺体が発見されている。文香さん、いくら屋敷の中とはいえ、深夜には出歩かないように。屋敷の外なんてもってのほかだ。いいね?」
「はい。ねえ、紫月さん」
「うん?」
「ちょっと遊びましょう」
私は紫月さんの隣に、ぴったりと身体を引っ付けて座り直す。紫月さんの後ろ髪を掴むようにして唇に噛み付く。熱くて、ねっとりと柔らかい舌が絡み合う。
「早く冬にならないかな・・・」
紫月さんの首筋に唇を落としながら言う。落ち着いた、濃密な甘い匂い。香水ではない。紫月さんの体臭。まるで花の蜜を集めたような香りだ。
昼の紫月さんは、乙女でちょっとマゾヒスト。
夜の紫月さんは、器用なサディスト。
そんな感じがする。シャツの上から紫月さんの乳首を抓るといつも甘い声を漏らす。嬌声を噛み殺そうとする。自分が喘がないために私を喘がせようとするのだ。
「んうっ! こらっ・・・!」
紫月さんにしがみついて背に爪を立てれば、きっとこの人はこれ以上ないほど善がり狂ってくれるだろう。
「紫月さん、私、ゴスパンクのファッションやめたんです。化粧も肌を整えるためにシンプルにしたんですよ」
「急になにを、んっ・・・」
「服装は未だに黒で、ブーツかヒール履いてますけどね。威嚇する必要が無くなってきましたから」
両の乳首を抓りながら言う。紫月さんは声を漏らさないために両手で口をおさえこんでいる。
「好きなことを否定されたくないから隠すって、自分が一番好きなことを冒涜してるなと思って。だから紫月さんに貰った水色のワンピース、たまに着て出掛けてるんです。大学にも、駅前のカフェにも、家族との外食にもね」
「可愛い・・・」
「えへ、可愛いでしょ、私。紫月さんが気付かせてくれたんですよ」
紫月さんの両手首を掴み、私の胸を持ち上げるような形で触れさせる。暫く撫で回されたあと、お返しだと言わんばかりに乳首を抓られた。
「ああうっ・・・」
「下着はちゃんと着けなさい・・・」
「これ、そういうことするための下着。形は崩さず揉んだり抓ったりし放題」
「馬鹿か君は」
「イカれてるのはそっちでしょ」
「違いない」
甘い時間はあっという間に過ぎていった。挿入しない快楽は弱火で焦がすようなもどかしさすら感じるようになっている。本当に早く冬になればいいのに。
私が部屋を出ようとドアノブを握った時だった。ソファーに座っていたはずの紫月さんが立ち上がり素早く私に近付くと、私の手ごとドアノブを掴んで、僅かに開いたドアを閉める。
「・・・紫月さん」
「わかるようになってきたね」
背を向けたまま話す。紫月さんはぴったりと私に身体をくっつけている。
「あの、当たってるんですけど・・・」
「二回戦」
「マジすか、元気すぎるでしょ・・・」
「君は若いんだから平気だろう?」
「平気か平気じゃないかと言われれば断然平気です」
「フフッ、君は本当に面白い子だね」
するり、と身体を包むように手が這う。
「私だけ良い思いをするなんて不公平じゃないか」
「あぅっ、立てなく、なる・・・」
「ドアに凭れ掛かればいい」
「そ、そんな・・・」
「『切り裂き魔』が誰か知りたいかい?」
「紫月さんじゃ、ないんでしょう?」
「可愛い声で鳴くたびにヒントを一つあげよう。演技していると判断したらお仕置きだ」
「そんな、あっ・・・」
「ヒントだ。『切り裂き魔』は九条紫月ではない」
「うっ、んん・・・」
胸を下から持ち上げられるように揉まれる。
「意外と近くに居るのかもね?」
「ヒント、ですか?」
「そうだよ」
右手で身体を包むようにして左胸を掴まれ、左手は太腿の間に伸びる。私はドアに両手をついて、震える膝に言うことを聞かせようと必死になる。
「どうして私に、う、全部話すんで、んあぅ!」
「うーん? お仕置きかな?」
「ちょ、ちが、いぅッ」
耳の裏を舐められて声が出てしまったのに『お仕置き』として耳を軽く噛まれる。
「お仕置きかな」
「ちょっと、あっ! そ、そんなところにキスマークつけないでください!」
「ハハ、私には見えないよ」
「他の人には見えるでしょ!」
「可愛いなあ、文香さんは」
「どうして私に、そんなに・・・」
「一目惚れしたって言ったら、信じるかい?」
「し、信じるけどお・・・」
「あはは!」
「・・・ヒント、くれないんですか?」
「ああ、そうだったね。君には決して手出ししないように命令してある。例え俺が君に拷問されていようともね」
「イカれてやがる」
「違いない」
紫月さんが笑う。
「文香さん、可愛い声、聞かせてくれよ」
崩れ落ちるまでの間にわかったのは、『切り裂き魔』は九条紫月ではない、意外と近くに居る、水無瀬文香には手を出さないよう命令されている、性別は男、中肉中背、年齢は四十代、紫月さんには逆らえないのではなく従っている、医学の知識がある、紫月さんが殺人を命令しているのではない、本人の意思で動いている・・・。
「クイズはおしまいかな?」
「も、立てな、むりぃ・・・」
「ハハハ! 産まれたての小鹿みたいだね」
「この、サディストが・・・」
「本当に可愛いね、文香さん」
紫月さんがズボンのベルトを外した。咥えさせるつもりらしい。
「もう顎が外れそうなのに・・・」
「すぐ済むよ。二回目だからね」
紫月さんの言う通り、搾取するような奉仕だったので大して時間はかからなかった。私は部屋に戻り、シャワーを浴びて歯を磨き、疲れた身体をベッドに横たえる。
「紫月さんの馬鹿・・・」
夕食時の紫月さんは、私に対して気まずそうにしている。
「ねーえー? 紫月さあん。紫月さんって愛人募集してないのぉ?」
それを喧嘩したとでも取ったのだろうか、久遠寺が甘えた声を出す。
「なにを言っているんだ君は」
「えーっ、だって紫月さん格好良いしぃ? お金持ちだしぃ? もし愛人募集してるなら立候補しちゃおうかなー? なんて、」
「君はもう少し己の愚かさを自覚した方がいい」
久遠寺がぽかんと呆けたあと、紫月さんを睨み付ける。
「私が見えないからって馬鹿にしているんだろうがね、視線というのは強い力を持つものだ。睨み付けられていることくらいはわかるよ」
「・・・あーっ!! もう最ッ悪!! なんで私がここまで馬鹿にされなくちゃいけないのよ!! もう帰る!! 帰ればいいんでしょ!! 船出してよ!!」
「朝に帰れ久遠寺。これ以上我儘言うな」
「・・・最ッ低。クソブスナナフシ女。あんたにゃその欠陥品のおじさんがお似合いよ。精々介護生活頑張るのね!!」
久遠寺が両手でテーブルを叩く。食器と料理が悲鳴を上げた。そして荒っぽい足音を立てて食堂から出ていった。
「紫月さん、」
「君が謝る必要はないよ。ああいう子はどこかで大人が怒ってあげないとずっと調子に乗り続ける。あんまり高いところに乗っていると落ちた時の痛みが増すだけだ」
紫月さんは呆れたように笑い、
「まあ、落ちてもわからない馬鹿も居るけどね」
と言った。
アレは恐らく、『目を閉じているだけ』だ。
そしてすぐに見えなくなった。
夜。私はキッチンには行かずに勉強をする。寝る時間、つまり薬を飲む一時間前になると、私は紫月さんがくれた水色のワンピースに着替えた。白いパンプスも履く。
「似合わんなあ」
呆れて笑ってしまう。この格好で紫月さんの部屋に行こう。寝巻と、薬の入ったポーチを持って部屋を出た。
「紫月さん、入ります」
『どうぞ』
返答があった。合鍵で開錠する。
「待っていたよ」
夜の部屋に昼の月が浮かんでいる。
「忘れ物は無いかい?」
「はい」
「よかった。もう部屋の外には出ちゃいけないよ」
「はい。一緒に寝ましょう」
二人で寝室に移動し、ベッドに腰掛けた紫月さんの両肩に手を置く。
「今、紫月さんに貰った水色のワンピース着てるんです」
破顔一笑。
「触って確かめて」
紫月さんの両手が私の両手を伝い、身体のラインを探るように降りていき、生地を撫でる。
「寝巻きは目の前で着替えますよ」
「それは・・・興奮するな・・・」
「スケベオヤジめ」
「フフ、あはは。早く着替えておくれよ」
「では、失礼して・・・」
する、さらり、衣擦れの音。
「・・・イイな。凄くイイ」
「嫁に来てくれたら毎日だって聞かせてあげますよ」
「よ、嫁!?」
「私、絶対に医者になりたいし、家庭に入って専業主婦とか無理なんで。なら紫月さんを連れ出すしかないでしょ。婿養子に来るんだから嫁ぐのと変わりありませんよ」
「そ、それは、そ、いや、あの・・・」
紫月さんは顔を真っ赤にしている。
私はもうこの人に『ダイヴ』はしない。
「どうしたんですか? まあどうしてもと言うのなら、こっちに嫁いできて九条文香になっても構いませんけど」
「最近の若い子は積極的だな・・・」
「どっちにするんです?」
「・・・私をここから連れ出してくれるのか?」
「はい」
「・・・は、ははは。君は私の王子様だよ」
「泣くほど嬉しいの? 私の前では好きなだけ泣いていいですからね」
「ありがとう」
紫月さんの額に、頬に、何度もキスをして髪を撫でる。そのままベッドの中へ。互いの指が互いの身体を滑る。口付ける音。吐息。シーツを掴んで仰け反ったアダムの林檎に齧り付く。
「紫月さん、目が見えないってどんな感じ?」
私の問いに、紫月さんは甘い声で答える。
「・・・灰色、だな。酷く薄い。昼間に見える月みたいだ」
「素敵な例えですね」
「君にだけ、見せてあげるよ。私の瞳は少し変わっていてね。色素が薄くてまるで琥珀のよう、らしいよ」
紫月さんが私の両頬を包む。
「おいで」
手に導かれ、顔を向かい合わせる。
そっと、目蓋が開く。
視線は、合わない。琥珀が暗い部屋で煌めく。
「・・・どうかな」
「綺麗」
「フフ、嬉しいよ」
「キャラメルみたいで美味しそう」
「食べちゃ駄目だよ。文香さん、お願いがあるんだ」
「なんですか?」
「・・・君と二人きりの時は、目蓋を開けていてもいいかな?」
「いいですよ」
「ありがとう。本当はいつも、意識して目蓋を閉じているんだ。過去に『目が合わなくて気持ち悪い』って言われて傷付いたものでね」
「私だけの宝石ですね」
「気障だねえ・・・」
くつくつと鍋が煮えるように紫月さんは笑った。
「文香さん」
「なんですか?」
「・・・映画は好きかい?」
「はい」
「私も好きだった。今は映画の主人公のような気分だ。ヒロインの君はどんなエンディングを望む?」
私は・・・。
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