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5.ネモフィラ
その後、アオイとシュンの間にどんな話し合いがもたれたのか、ナナハは知らない。
ただ「距離を置いてあげた方がいいね」と言った言葉通り、シュンと疎遠になり始めたアオイの左耳の後ろに、一月後、ネモフィラが咲き始めた。
そして……それからしばらくして、アオイはシュンと付き合い始めた。
「アオイ……シュンのこと、好きだったんだ」
シュンと付き合うとアオイから打ち明けられた日、動揺を押し隠してアオイにそう言ったとき、ナナハはアオイと図書館にいた。ナナハもアオイもサッカーと同じくらい本が好きで、連れだって図書館へ行くことはふたりにとって日常だった。
「そう、だね。まあ、好きになってしまった、が正しいのかな」
アオイは書架に手を伸ばしながらほんのりと頬を染める。その顔を見つめ、ナナハは苦々しいため息をつく。
「自分のタイミングで恋するって言ってたくせに」
「はは」
困ったように笑ってから、アオイはナナハを見下ろして目を細める。
「それ、無理だったみたい。僕はナナハみたいに、強くなかった」
「強く?」
「理性でどうにかなるものじゃなかった。踏みとどまる強さが僕にはなかった」
だから、と言って、アオイは微笑む。
少しだけ泣き笑いみたいに見える、顔だった。
「ナナハを見ていると、安心する。きっと君は変わらないだろうから。変わらずに友だちでいてくれそうだから」
その一言を聞いた瞬間、なぜか思った。
変わっちゃいけない、と。
変わったら……そばにいられなくなる、と。
そばに。
それから数日が経ったころ。
ナナハは鏡の前で凍り付いていた。
自身の右耳の後ろにネモフィラが咲いていた。
真っ黒なカラスの群れの中にまざる、青い小鳥。
──僕はナナハみたいに、強くなかった。
彼がどういう意味でそれを言ったのか、ナナハにはわからない。
けれど、自身の髪の中にネモフィラを見つけてから、ナナハの中にむくむくと湧き上がってしまった疑問がナナハは怖い。
アオイはシュンの気持ちを伝えたナナハにこう言った。
──それ……ナナハからは聞きたくなかったってなんでだか思ってしまった。
あれは、どういう意味だったのか。
訊きたい。
けれど、訊いちゃいけない。
だって彼は、その後にこうも言ったのだから。
──きっと君は変わらないだろうから。変わらずに友だちでいてくれそうだから。
変わってしまったら……アオイはもうそばにいてくれない。
そう悟ってから、もう三年経つ。
「ナナハ」
シュンとあれほどに情熱的に唇を交わし合っていたなんて嘘みたいな清らかな笑顔で、今日もアオイはナナハに向かって手を振ってくる。
その彼に手を振り返しながら、ナナハは右耳の後ろ、うっすら生え際を染めるネモフィラを不自然でない手つきで、ぬばたまの髪で隠す。
これ以上伸びることを許してはならない。
消さなければ。
すべて摘み取らなければ。
殺さなければ。
彼と一緒にいるために。これからも彼と笑うために。
絶対に。
図書館へ共に赴き、二人並んで椅子に座って。いつも通りに笑う日々を守らなければならない。
今日、彼が手にしているのは植物図鑑だ。その彼の手元を見て、ナナハは息を呑む。
青が目を射た。
「ネモフィラの花言葉ってさ、初恋、らしいよ」
平静を装って喉から出した声を、アオイはまったく警戒せず受け止め、そうなんだ、と笑う。
その微笑みが苦い栄養となって心に根を張っていくのを感じる。
じりじりと、痛みを伴って伸びていく。
彼の指が図鑑の中のネモフィラを撫でる。
ふっと過るのは、唇を重ねていたアオイとシュンの姿。
シュンの指によって触れられた、アオイのネモフィラ。
息をつめ、ナナハは指先を自身のネモフィラに伸ばす。
図鑑の上をすべる、彼の指。
鳴き喚くネモフィラの声を聞きながら、ナナハは彼の隣で目を閉じた。
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