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第十章【紫煙】三月一日
◆
翌日の夕暮れ前、私と冬哉はカワウソとともに内藤新宿へと向かった。
内藤新宿とは江戸四宿の一つである。つまりは大きな宿場である。そしてここには岡場所も存在している。岡場所とは幕府非公認の遊郭の総称である。
カワウソは昨晩しこたま酒を飲み、本日はお昼頃にのそのそ起きてきた。そしてさらに酒をせがんだ。冬哉は飼い主の居場所を聞き出した後で、カワウソに酒を与えた。
カワウソの飼い主は、内藤新宿の岡場所の遊女であった。
それは奇しくも、博為翁が水戸藩の情報があるかも知れないと教えてくれた場所であった。
「まったく、困ったもんだねぇ」
瀧乃と名乗る遊女は、酔いつぶれたカワウソを撫でながらいった。
「このカワウソは俺たちをつけて来たんだ。その理由を知りたい」
「この子がお兄さんたちをつけたってことは、どっちかが見鬼なんだろ」
瀧乃は上目遣いに私たちを見た。
「俺も、妹も見鬼だ」
冬哉は私を「妹」と、瀧乃に紹介していた。遊女は嫉妬深いので、女を連れていくと用心されるからという理由だった。客相手に遊女が嫉妬をするのは男性の幻想ではないかと思ったが、私にはわからない機微なので黙っておくことにした。
「一族で見鬼ってのは、めずらしくないらしいね。羨ましいよ。私はずっと変わり者扱いだったからね」
瀧乃はカワウソを撫でならがいった。
「なんで見鬼をつけさせたんだ?」
「ちょいと頼まれてね」
「水戸浪士に頼まれたのか」
冬哉がいうと、瀧乃は失笑した。
「あんたたち、幕府側の人間かい?」
瀧乃はそういって、紫煙をくゆらせた。
「どうかな」
「この妹さん、どうにも妙な気配がするね。幕府に人質に捕られていたりするのかい? このご時世、幕府の味方をする者好きは少ないだろ」
瀧乃はそういって、私を見つめた。
「口外できない。妹の件は、想像に任せるよ」
冬哉がいうと、瀧乃は「そうかい」と息を吐いた。
「女ってのは、どんな生まれであっても政治の道具にされちまうんだね。和宮降嫁の話も出てるらしいじゃないか」
和宮とは仁孝天皇の皇女で、のちに徳川家茂の妻になる人物である。幕府が朝廷との関係融和のために交渉した縁談である。
冬哉は思うことがあったらしく「そういえば」と口を開いた。
「そんなこともあったな。和宮降嫁を思いとどまらせるために、一恵が婚怪草紙という風刺画を描いたって話は聞いたことがあるな」
そのせいで一恵は投獄されたのか。
と続きそうな言葉であった。おそらくは冬哉が想像する通りなのだろう。
「その絵師は見鬼だって噂だね。知り合いなのかい」
「ずいぶん会っていないが、幼い頃に世話になった」
「そうかい。見鬼が周りにいるのは、単純に羨ましいよ」
瀧乃はそういって薄く笑った。
「本題に戻ろう。カワウソが俺たちをつけてきたのは、水戸浪士に頼まれてのことなのか」
瀧乃は「ただで話すと思うかい?」と、冬哉を見つめた。
「これ以上は出せない」
冬哉はそういって小判を一枚、瀧乃に渡した。
瀧乃はそれを手にとって「まあ、いいか」といった。
「あんたのいう通りだよ。水戸浪士に頼まれたんだ」
「どんな頼みをされたんだ?」
「太郎坊神社に見鬼が現れたら、その居場所を教えて欲しいって。それだけだったよ」
「妙な指示だな。太郎坊神社の神職一族はみんな見鬼だぞ」
「妙な指示だとしても、私はそれしか頼まれてないよ。最後の手段がどうとかいってたけど。肝心なことはいつも、教えてもらえないからね」
ボォン。
鼓膜に深く響く時の鐘が届いた。
暮れ六つの鐘である。
大きな何かが、近づいている音がする。
ぞわぞわと、嫌な予感がする。
自分の力が到底及ばないような場所で、何かが起こっている気配がある。
「この鐘の音に、妙な音が混じっていると思わないか」
冬哉は瀧乃に聞いた。
「それはよくわからないけど。最近はこの鐘を聞くと、なんだか不安を煽られる気がするよ。帰る場所なんてないのに、どこかに帰りたくなるような、そんな嫌な気持ちになるね」
瀧乃はそういうと、寝入っているカワウソを見つめた。
「ちなみに、水戸藩の中に見鬼がいるって話は聞いたことはないか」
冬哉はいった。
「さあ、聞いたことはないね。でも天狗党に、本物の天狗がいるなんて与太話は聞いたことがあるよ」
瀧乃は愉快そうに笑った。
それに関しては、私も冬哉も笑えない冗談であった。
井伊直弼の暗殺に、妖怪や天狗が関わっていれば、想像もつかないことが起こる可能性はあるように思えた。
「最後にもう一つ聞きたいんだが、瀧乃さんがその男に協力した理由は?」
冬哉の問いに、瀧乃さんは「野暮なこと聞くねぇ」と笑った。
「客として通ってきた人間には、情がわいちまうもんなんだよ。そうでなくても、いい年した男が、自分たちがどれだけ悔しい思いをしたかって泣くんだよ。なんだか可哀相に思えてね」
「悔しい思いってのは、弾圧のことか」
瀧乃は首を振った。
「朝廷から水戸藩に送られた文が、水戸藩の自作自演なんじゃないかと井伊直弼がいったんだろ? それがとんでもなく悔しいって、泣いてたよ」
瀧乃はそういって、再び紫煙をくゆらせた。
「でももう、あの人はここには来ないよ。昨日、今晩が最後だって顔を見せに来たんだ。この子がまだ帰ってきてないことを伝えると、見鬼は現れなかったんだろうって肩を落としてたよ。そうでなくても、あんたたちがあの人の探していた見鬼とも思えないしね」
瀧乃はそういうと、愛おしそうにカワウソを撫でるばかりだった。
◇
「天狗党に天狗がいたら、どういうことになるんだろう」
私はいった。
「人間に害はないけど、天狗の性格によっては、人をからかうようなことはするかも知れない。人間にどんな影響を与えるかは、完全に未知だな」
私はいい知れぬ不安に襲われていた。
その正体を探ると、どうしようもない答えにたどり着く。
そしてそれを、完全には否定できないことが怖かった。
だからこそ私は、その不安を口にすることにした。
「七才の頃、天狗を見たっていったでしょ」
「いってたな」
「その時の天狗が、私を十年後に迎えにくるっていってたの。その天狗がこの世界にいるなら、私はその影響を受けて、よくないことをするんじゃないかって不安になる」
冬哉は私の真意を探るべく、じっとこちらを見つめた。
「具体的に、どんな不安を抱いてるんだ?」
「今考えている中で最悪なことは、天狗の影響で、私が直弼さんを殺してしまうこと」
それはついさっき浮かんだ、最悪の結末だった。
冬哉は「そういう可能性もあるかも知れない」と、落ち着いた声でいった。
「でも、話してくれて助かった。俺がいる限りは、そんなことはさせないよ」
その一言で、深く呼吸ができるように思った。
人に頼れるということが、こんなにも心強く、心地いいことだとは知らなかった。
私は一人で生きてきたと思えるほどには、子どもではなかった。
それでも母が死んでからは、三人だった家族が二人になったわけではなく、一人と一人になってしまったように感じていた。
二人でいると、母の不在を強く感じる。
私と父は、それを二人で乗り越えることはできなかった。
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