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第十一章【音もなく】三月二日
◆
安政七年、三月二日。
その日は夕方から、雪が降り始めていた。
私と冬哉は彦根藩邸の茶室に呼ばれ、直弼に明日の話をされた。
「やはり身代わりを立てるのが一番いいだろうという結論になった」
身代わりを立てることによって井伊直弼が生き残れるのか、この世界がどんな風に変わるのか、私にはなにも想像できなかった。
「その日に処刑する者を眠らせて、駕籠に入ってもらうことにした。私自身は明日、大名行列の見物客に混じって、自分の運命を見届けることにする」
冬哉は「は?」と顔を上げた。
「さすがに身を隠していた方がいいだろ。井伊直弼の顔を知る者は少ないといえど、絶対にいないとは言い切れない」
私も冬哉と同じ気持ちであった。
「しかし杏里さんがいったようにこの雪が降り続けるなら、頭巾や傘で顔を隠せる」
「それはそうだが」
「実は大名行列が襲撃されるかも知れないという話は、別の家臣からも先ほど伝え聞いたんだ。だから護衛を増やした方がいいとも助言された。しかし護衛の数は決まっているから、それはできないと断った」
「そんなこといってる場合なのか」
「駕籠の中が私ではないんだ。無駄に命を落とす必要もない。明日は日雇いの護衛に多くついてもらうことにした。しかしそれだけでは妙に思われるから、腕の立つ護衛にも駕籠についてもらうことになった」
つまりその人たちは、襲撃の犠牲になる可能性があるわけである。
私の手はひんやりと冷たくなった。
「私はその者らの姿を、この目に焼き付ける義務がある」
直弼の意思は固いようだった。
「どうしても、身を隠す気にはならないか」
「そうだな。どうしてもこの目で見ておきたい」
「ここ数日、時の鐘に異音が混じるようになった。おそらく下法を使ってなにかしようとしている者がいる。それが井伊直弼襲撃と、無関係と考えるのは難しい。俺たちが想像もつかないことが起きる気がするんだ。だから俺は、直弼さんには身を隠して欲しいと思ってる」
冬哉は改めて直弼の目を見つめた。
「しかし日本には今、人間に直接害をなす妖怪は残っていないのだろ。それに、杏里さんのいた未来では、私は駕籠から引っ張り出されて首を斬られている。妖怪が私に、なにかできるとはあまり思えない」
「でも妖怪の影響を受けた人間が、どんなことをするのかはわからない。無差別に暴れる者が出てくる可能性もあると思った方がいい」
「しかし冬哉がいれば、その影響も最低限は防げるだろ」
直弼があっけらかんというと、冬哉は説得する気が失せたらしく、息を吐いた。
「野外だと、それほど大きな結界は張れないぞ」
「充分だ。最後まで世話になるな」
大名行列の見物客にまぎれて、護衛の最期を見届けるという直弼の意志は変わらなかった。
それから直弼は私たちに、明日の服装とだいたいの居場所を教えてくれた。
私と冬哉はその向かい側で、大名行列の見物客に紛れることになった。
「愛宕神社の警備の方は?」
冬哉はいった。
「杏里さんの話では当日の朝に愛宕神社に集まるとのことだったから、今夜から周辺の取り締まりは強化している。しかしそこに多くの人員は割けないし、捕まえるのは難しいだろうと主膳がいっていた」
防止できれば一番であるが、確かにそれも難しいのだろう。そもそも誰を取り締まればいいのか、指示も出しにくいはずである。
「直弼さんは本当に、身を隠すつもりはないんですか。以前もいったように、襲撃犯も、護衛の人も、それなりの人数が命を落としました。私が知らないだけで、大名行列の見物客にも被害があったかも知れません。そう考えると、身を隠してくれていた方が安心できます」
私がいうと冬哉は強くうなずき、直弼はしばし沈黙した。
「私はそれなりに多くの人間の命を奪いました。しかし明日、私の護衛について命を落とす者には、なんの罪もありません。その有志を私が見届けなければ、彼らは浮かばれません」
直弼のいうことは正しい。
正しいから、誰もなにもいえなくなったのかも知れない。
「身代わりの者の首が取られたら、私と主膳はすぐにその場から立ち去ります」
だからもう、これ以上はなにもいわないでほしい。
直弼はそういっているようだった。
そしてそれは、冬哉にも充分伝わっているようだった。
「冬哉。私は、お前に会えて幸運だった。次に会う時は、私は井伊直弼の名ではないはずだが、くれぐれもよろしく頼む」
茶室を出る際に、直弼は冬哉にいった。
「俺も直弼さんに会えたことは幸運だったと思ってる。別の名前になっても、ちゃんと生きてくれ」
直弼は「もちろんだ」と笑った。
「杏里さんも、本当にお世話になりました」
私がこの世界にいられるのは、明日の夕暮れまでである。
そうでなくても、私はもう井伊直弼に会う機会はないのだった。
「こちらこそ、ありがとうございました。食事を用意してくれたことも、直弼さんが自分の話をしてくれたことも、すごくうれしかったです」
私がいうと、直弼は「とんでもない」と微笑んだ。
井伊直弼のこの先の未来を、私は知らない。おそらく知るすべもない。
ただ、この人には生きて欲しいと思った。
◆
「この雪が、明日まで降り続くのか」
冬哉はそういうと、空を見上げた。
私もそれにつられて、雪が舞い落ちてくる空を見上げた。
「太郎坊だ」
冬哉の視線の先には、天狗が飛行していた。
「太郎坊神社の神様? 見分けがつくの?」
「神様は蔵面で顔を隠してることが多いんだけど、太郎坊の蔵面は覚えてるんだ」
私の視力では太郎坊の蔵面がよく見えなかった。
「天気が悪い日に飛んでるのはめずらしいな」
神様や妖怪の類といえど、羽根が濡れるのは避けたいものなのだろうか。
そんなことを思いながら、私は小さくなっていく太郎坊を見つめた。
平河神社へ戻ると、私たちは参道脇の雑木林へと入った。
「明日の暮れ六つの鐘が鳴り終われば、杏里さんはなにもせずとも元の世界には帰れる。でも、より安全に帰れるように準備しておきたい。明日は、何が起こるか想像がつかないからな」
冬哉はそういうと、うっすらと雪が積もった地面に陣を描きはじめた。
「何もしなくても帰れるの?」
「うん。ほとんど強制的に元の世界に帰れる。でもより安全に帰るなら、ここにいた方がいいという程度だ。念のために、杏里さんの髪を一本もらっていいかな」
一本でいいのかと思いつつ、私はそれを渡した。
「なにしてるんだ?」
冬哉が陣を描いていると、トトが姿を現した。
「杏里さんが明日、元の世界に帰るんだ」
「かえる?」
トトはそういって私を見上げた。
「トトはあと五百年くらいは生きるだろうから、杏里さんが生きてる時代でも、会えるかもしれない」
当たり前であるが、元の世界には冬哉はいない。
その事実が、私の胸をひんやりとさせる。
陣を描き終えた冬哉は「できた」といって、こちらを見た。
「さみしくなるな」
「私も」
明日のこの時間、私はもうこの世界にはいない。
冬哉が描いた陣の上には、音もなく白い雪が積もっていった。
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