3人が本棚に入れています
本棚に追加
第十二章【呼ぶ声】三月三日
◆
安政七年、三月三日。
江戸城の桜田門周辺は、前日から降り続く雪によって白く染まっていた。
しかし足場の悪い中でも、大名行列の見物客は多かった。
私と冬哉は予定通りの場所に立ち、直弼と主膳を視界にとらえていた。
頭巾や傘を差している人がほとんどで、直弼が顔を隠していても、目立つことはなかった。
各藩の大名行列が、次々に目の前を通り過ぎていく。
賑やかであるはずのそれらは、雪のせいかずいぶん静かに感じられた。
心身ともに冷えてしまうような、そんな寒さが江戸の町を覆っている。
ドォン。
太鼓の音が鳴ると、彦根藩邸から大名行列が出てきた。
そしてほどなく、それが起こった。
「たてまつる! たてまつる!」
その声が聞こえた後に、パァンと乾いた音がした。
あとはもう一瞬だった。
私は冬哉に「見ない方がいい」と目を隠され、襲撃の瞬間が網膜に焼き付くことはなかった。
それでも私の聴覚は、今いる場所から遠くない場所で、襲撃が起きていることを感じとっていた。
男たちの怒号、ひどく興奮した気配が、肌さえも貫通してくる。
殺し合いをしている声、音。それらが鼓膜を揺らす度に、私の頭はくらくらした。
ボンと毬を蹴るような音がしたかと思うと、それが数回響いた。
その後で、誰かの叫ぶ声がした。なにかを宣言しているような、そんな声だった。
それらを受けて、辺り一帯の雰囲気がゆるやかに変化した。
井伊直弼の身代わりの首が斬られたのだろう。
ほどなく私の目の前からは、冬哉の手がどけられた。
私たちの立つ位置から五十メートルほど離れた場所には、駕籠が置き去りにされていた。日雇いの護衛は、おそらくすぐに逃げたのだろう。
白い雪の上には、赤い血が飛んでいる。
その色がずいぶん鮮やかで、しばらく忘れられないかも知れないと思った。
身代わりは成功したといっていいはずである。
しかし私の胸には不安がこびりついて離れなかった。
私の目は自然と、直弼の方を向いた。
直弼と主膳は首が斬られたのを見届けて、その場から歩き出したところだった。
ボォン。
嫌な音がした。
脳を揺らす、不安を急かす音。
なにかが迫っているような、そんな耳鳴りがする。
これは鐘の音ではなかった。
「この音、聞こえるか」
冬哉はいった。
「聞こえる」
「俺たちにしか、聞こえないのか」
冬哉はそういって辺りを見渡した。
ボォン。
なにか良くないことが起きる。
そんな気がする。
私の視線は、再び直弼へと向いた。
直弼と主膳は、すでに数歩ほど移動していた。
主膳は誘導するように、そして守るように、直弼の少し前を歩いている。
「松成?」
冬哉は小さくいった。
冬哉の視線の先には、松成と思われる人物が主膳とすれ違い、そして直弼とすれ違おうとしていた。
そして、それが起こった。
松成と直弼がすれ違った直後、直弼は膝から崩れ落ちた。
その刹那、主膳は無駄のない動きで松成を背後から斬りつけた。
そして松成は音もなく雪の上へと倒れた。
ほんの一瞬の出来事だった。
周囲の者は掲げられた首に釘付けになっており、直弼らの異変に気づく者はいなかった。
そうでなくても負傷した浪士たちが散り散りになっているので、周囲に負傷した者がいても騒ぐ者はいなかっただろう。
主膳は崩れた直弼を背負うと、足早にその場を去っていった。
松成は、白い雪に倒れたまま動かなかった。
「松成が、直弼さんを襲ったのか」
冬哉は呆然としたままで、松成の元へと駆け寄った。
「松成。大丈夫か」
冬哉はそういって、松成を抱き起こした。
「冬哉、か」
背中を斬りつけられてはいたが、松成が話せる状態であることに、冬哉はほっとした様子だった。
「とりあえず、医家にいこう」
冬哉はそういって松成を背負った。
「冬哉。あれは、直、弼だろ」
松成は小さな声でいった。
「顔を知っていたのか」
「知らない。でも、わかった。俺には、わかった、んだ」
「もういい。しゃべるな」
「あの首を見た時、井伊直弼は絶対に、この近くに、いると思った。そして、鬼虚を背負った、あの男を、見つけた。お前が、背負わされていた鬼虚と、そっくりな、鬼虚だ。あの男が、井伊直弼だ」
「じいさんと片目を共有していたのか」
冬哉は悲痛な顔でいった。
松成は「ああ」と、うめくようにいった。
ボォン。
深く響く耳鳴りが強くなった。
そして微かに地面が揺れた気がした。
「俺は、呪う。あの男を、呪う」
そういった松成の左目は、いつかのように怪しげに光っていた。
「冬哉。気づ、かなかったか」
松成の息は浅くなっていった。
「浪士に、掲げられた、あの首は、親父の首だ」
最初のコメントを投稿しよう!