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第十五章【朝が来て】二月二十六日
◆
目覚めると、そこは祖母の家の客間だった。
つまり私は元の時代へと戻ってきたらしい。
座卓に置きっぱなしの携帯電話を確認すると、二月二十六日の午後九時半であった。
冬哉がいっていたように、向こうの一日は、こちらの一時間未満だったらしい。
「杏里ちゃん?」
私が和室でぼんやりしていると、祖母はひどく驚いた様子だった。
久しぶりに会った孫が急に消えて、そして急に戻ってきたのだから、その驚きは察してあまりある。
私はまだすべてが上の空のまま、祖母に謝罪をした。
私の様子があまりにもおかしかったせいか、祖母は私を責めるような言葉は口にせず、今夜はここに泊まったらいいと提案してくれた。
二次試験を終えた私が、ひどく消耗してしまっていると思ってくれたらしかった。
一時間以上電車に揺られて横浜に帰る自信がなかったので、私は祖母の言葉に甘えることにした。
私は祖母に促されて、父に連絡を入れた。
すぐに「わかった」という、そっけない返事がきた。
その五分後に「これは、明日食べよう」と、写真が送られてきた。その写真は、ピザやお寿司などが食卓に並べられたものだった。しかも食べかけであった。
父がそんな気の利いたことをしてくれているとは思っていなかったので、なんだかひどく気が抜けた。
こういう夕飯があるのならいってくれればよかったのにと思う反面、二次試験の日に自宅に帰らない私もずいぶん勝手なものだと思った。
私と父は向き合うことができなかったと感じていたが、もしかしたらそうでもなかったのかも知れない。
結局、私と父は似ていて、似すぎていて、常に同じ方向を向いていたのかも知れなかった。
◇
風呂をいただいた後でも、私はひたすらにぼんやりとしていた。
客間で祖父と母の遺影を見つめながら、あやとりを動かし、ここが私の現実なのだと静かに受け入れ始めていた。
「気になることでもあった?」
祖母はそういって、温かいお茶を出してくれた。
私は「ありがとう」と、それを受け取った。
「二人の遺影と春河マイの写真が、仏壇にあるのが意外だなと思って」
私がいうと、祖母は「そうね」と笑った。
「おじいちゃんは、お母さんが関西の歌劇団に入るのも、反対してたんでしょ」
――杏里ちゃんはお母さんに似ているから、苦労もあるかも知れない
祖父がどんな苦労を想像していたのかはわからないが、祖父なりに私を思ってくれていたのだろう。
「そうね。でもね、伝わらなかったかも知れないけど、応援はしていたのよ。人の心なんて、本当にわからないものよね」
祖母はそういうと、小さく笑った。
再び二人の遺影を見つめると、その額に名前が彫ってあることに気がついた。
「おじいちゃん、冬夜って名前なの?」
私が聞くと、祖母は「そうよ」と遺影を見つめた。
「親族の名前なんてわからないわよね。冬の夜に生まれたから、冬夜ってつけられたらしいわよ」
◇
布団の中に入ってしまうと、なんだが目が冴えてきた。
そして私は「川上冬哉」の名前を、ネットで検索してみた。しかしそれらしいものは見当たらなかった。
あの時代から百年後に目覚めたとしたら、今は八十才として生きている可能性はあるのだろうか。
もしくは私の祖父だった可能性もあるのだろうか。
冬哉が目覚めていたならば、子どもや、孫がいる可能性は充分にあるだろう。その人生が幸せであることを願うばかりであるが、私の胸が微かに痛むのも、また事実だった。
私は川上冬哉の検索をやめて、安政時代の歴史を見つめ返した。
井伊直弼は桜田門外の変の後、その死を秘匿する工作がされた。それは彦根藩内を安心させるためでもあり、彼の不在後の人事を考えてのことだったとされている。
それは、事実だったのかも知れないと今なら思う。負傷した直弼が、数日生きた可能性もまったくないとは言い切れないからである。
そのあとで、浮島家の記述を見つけた。
一恵は処罰中に病死との記載があり、松成に関しては五十四才で亡くなったとあった。
つまり松成は、あの傷では死ななかったらしい。
その事実に、私は心から安堵した。
◆
「ダメ」
眠っていた私を、その声が起こした。
室内はうっすらと白くなっており、朝が近づいているらしかった。
「きけん」
その声には聞き覚えがあった。
幼い頃の記憶でなく、もっと最近に聞いた声だった。
声の方に目を向けると、そこにはトトがいた。
「トト!」
「きけんだから!」
私の目が自分の姿を映したと判断すると、トトはこちらに寄ってきた。
――ダメだよ、危険だから
それは、私がトトに向かって最後にいった言葉たちだった。
「私の名前は、杏里」
私はトトを抱きしめた。
「あんり!」
「ごめんね。ずっと気付けなくて」
トトはなにもいわず、ただ喉をゴロゴロと鳴らすだけだった。
「冬哉は、あれから目覚めた?」
「おきた! でもまた寝た!」
つまり冬哉は、目覚めた後で、その寿命をまっとうしたのだろう。
「いまは、神社!」
「神社にお墓があるの?」
通常はお寺のように思うが、そういうこともあるのだろうか。
トトは私の問いに答えず「こっち!」と、勢いよく祖母の家を飛び出した。
私はコートを羽織り、白い息を吐きながら必死でトトの後を追った。
寒いと思ったのは最初だけで、走り始めてしまうと私の身体はすぐに熱を帯びた。
トトはしばらく走ると「ここ!」と、近所の神社へと入っていった。
私は息を切らしたまま、その神社に足を踏み入れた。
「あの時の、異物か」
頭上から声がしたので視線を向けると、そこには太郎坊の姿があった。
「あんり!」
太郎坊が地面に降り立つと、トトはいった。
「そうか、杏里という名なのか」
太郎坊はそういって、トトを抱き上げた。トトと太郎坊は良好な関係であるらしい。
「そうです、杏里といいます。太郎坊は今、ここの神様なんですか?」
「私の寝床は今も昔も、ずっと太郎坊神社だ。しかしいつの間にか、冬哉の身体を守ることも私の仕事になってしまってな。冬哉のいる場所に、時々こうして顔を出している。大鯰を抑えたとて、この世界は何度も災害に襲われるし、それ以上にひどいことが度々起きるからな。冬哉の身体はその度に、移動を余儀なくされていた」
太郎坊はそういうと、トトを抱いたまま歩き始めた。
「どうした。冬哉を起こすのだろ?」
つまり、どういうことなのだろう。
考えがまとまらないうちに、太郎坊は「ここだ」と、境内にある一つの社殿を開けた。
そこには、布団に寝かされている冬哉がいた。
髪の長さも、なにもかもがそのままで、静かに眠っていた。
「どうして?」
私は太郎坊を見つめた。
「冬哉はあれから一度目を覚ましたが、まだ大鯰を抑え込む必要があったらしくてな。再び眠りについたのだ。いつ起こしたものかと思っていたが、お前が起こすのもなにかの因果なのだろう」
冬哉の側には、解呪方法が記載された和紙があった。
私はそれを静かに発動させた。
そしてほどなく、冬哉の目が開かれた。
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