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エピローグ
◆
博為の代わりに大鯰を抑える人柱となった後、冬哉の体は鉛のように重くなった。
ガンガンと殴られるような痛みが、毎秒頭に響いてくる。
そんな状態のまま、冬哉は転移術で時空をこえた。一縷の望みをかけて、過去に飛んだはずだった。
しかし冬哉の目の前には、妙な背負子を背負った子どもがいた。
その子どもには、見覚えがあった。
杏里だった。
つまり自分は、未来に飛んでしまったのだった。
転移術に関しては、過去に飛ぶよりも、時の流れに逆らわず未来にいく方がはるかに容易である。自分には過去にいく体力がなかったのだろう。それは下法の代償として杏里の髪を使ったせいかも知れないし、冬哉自身に杏里と離れたくないという気持ちが存在していたせいかも知れなかった。
「今、何才だ」
冬哉は痛む頭を抑えて、まだ幼い杏里に聞いた。
「七才」
「そうか。七才か。十年後、むかえにくる」
冬哉はそういって幼い杏里を抱きしめた。抱きしめようとした。
しかし杏里に触れる前に、冬哉は元の世界に戻っていた。
そのあとで、杏里が見た天狗は自分だったのだろうと気がついた。
しかしそれを伝える力もなく、冬哉は目覚めるはずのない眠りへと落ちていった。
◇
「起きたか?」
次に目覚めた時、冬哉の視界にはトトと太郎坊、そして松成によく似た中年の男がいた。
「俺はなぜ、生きているんだ」
冬哉が問うと、松成に似た男がその経緯を説明してくれた。
自分の胸元にある懐中時計を、ひどく懐かしい気持ちで見つめた。
転移術を発動させる際に「自分の力になってくれる者を」と、切に願った。
そして杏里が現れた。
彼女はきっと、大鯰による地震を防ぐために未来からやってきたのだろう。そして、こうして自分を生かしてくれるために、来てくれたのだろう。
しかし冬哉は、自分がこのまま起きることにためらいがあった。
冬哉の体調はまだ、万全とはいえなかった。
意識がはっきりしてくると、頭痛もひどくなってきた。その頭痛は、大鯰によるそれであることを冬哉は知っていた。
自分はまだ、大鯰を抑える役目を終えていないと判断した。
もしかしたらもう二度と、目覚めることはできないかも知れない。
それでも冬哉は、再び眠りにつく選択をしたのだった。
――同じ場所で、同じ人と、安心して食事ができること
誰かの平和を守れるのなら、それでいいと思った。
◆
長く眠ったように思うし、ほんの一瞬だったようにも思う。
やけにすっきりとした目覚めだった。
目を開けると、トトと太郎坊の姿があった。
そして、杏里の姿があった。
彼女は、いつかのように泣いていた。
「酒でも飲んだのか」
冬哉はそういって、杏里の涙を拭った。
「この世界では、私も冬哉も、まだお酒は飲めないよ」
十七にしては肝が座っていると思う反面、時々とんでもなく幼い表情をみせる。
こんな幼い表情をするのは、どうやら自分の前だけらしい。そんな風に思ってしまうと、冬哉は彼女を愛しく思った。できればずっと側にいられたらいいと思うほどには、そう思った。
「そうか、しばらく酒は飲めないか」
冬哉がいうと、彼女は柔らかく微笑んだ。
「今の俺に、なにかしてほしいことはあるか」
冬哉がいうと、杏里はすぐに口を開いた。
「まずは、予防接種」
――冬哉と一緒に生きられるなら、長い方がいいから
白みがかっていた世界は、次第にはっきりとした光に包まれはじめた。
春の気配がした。
【 了 】
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