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第三章【あやとり】二月二十七日
◆
冬哉に手を引かれて歩いてほどなく、私たちは神社の参道にたどり着いた。
私が座り込んでいた場所は、参道脇の雑木林だったようである。
「ここは平河神社だ。俺はここの宮司に雇われている神職なんだ。今は、境内にある平屋に住んでる。宮司一家は、あの家だ」
冬哉はそういって、神社からそれほど離れていない家を指した。
私がその家に目を向けていると、ガサガサと暗闇から音がした。
「とうや! しゅぜんがくる」
そういって姿を現したのは、白い獣であった。私が知るネコよりも一回りほど大きいが、ネコのようである。
「わかった。ありがとう」
冬哉はネコが人語を話すことを、当然のように受け入れていた。
「この子も妖怪だ。名前はトト」
私の視線に気付くと、冬哉はいった。
「姿が見えるし、声も聞こえてるだろ」
私は「うん」と素直にうなずいた。
「さっきの狐面の子どもたちより、はっきり見える」
「目が慣れたんだろ。一度みえるようになると、そういう目になるんだ。みえなかった頃には戻れない」
冬哉はわしわしとトトを撫でた。
冬哉に撫でられているトトは、満足そうに目を細めた。
「それは、首輪?」
私はトトの首を指した。
トトの首には、なにかが掛けられていた。
「これは懐中時計。呪具といわれる物なんだけど、知り合いのじいさんにもらったんだ。使い道もないし、手にあまるからって」
「この時計が呪具なの?」
「うん。この懐中時計を術で生き物とつなぐと、生き物の時間と懐中時計の刻む時間は連動するんだ。つまりその状態でこの時計と速めると、その生き物の成長速度も速くなる」
なんだかとんでもない懐中時計であることは理解できた。
「トトが早く成長したいっていうから、通常の一・二倍の速さで懐中時計を進ませてるん」
なんとも慎ましい速さである。どんな道具も、使う者次第なのだと思わされる。
「いまは、とまってる」
トトはいった。
「え、そうなのか」
「うごいてない。コチコチいわない」
冬哉はトトの首からそれを取ると「本当だ」と呟いた。
「トトの時間も止まっていたのか。どうりでここ数日、メシをせびりにこないわけだ」
冬哉は右手の人差し指と中指を立てて、なにかを詠唱した。すると懐中時計と、トトの心臓のあたりが薄く発光した。
「この時計はもう壊れたみたいだから、俺が持っておく」
冬哉はそういうと、懐中時計を自分の袖にしまった。
トトは「わかった!」と、即答した。早く成長したい理由は謎であるが、それほどこだわりもなかったようである。
冬哉が懐中時計をしまう仕草を見て、私はなんとなく自分のポケットを探った。
想像した通り、それはポケットから消失していた。
「どうした?」
冬哉は私にいった。
「ちょっと、落とし物したみたい。でも大丈夫、たいしたものじゃないから」
「しかし気になっているんだろ。回収しよう。何を落としたんだ?」
それは口にするのをためらうほどには、本当にたいしたものではなかった。
「あやとり」
私は小さくいった。
「戻って探してみよう」
冬哉は即答した。
「え、いいよ。本当にたいしたものじゃないから」
それは母の形見であるとか、大事な誰かにもらったとか、それについての思い出があるとか、そんなことは一切ない。ただのあやとりだった。
しかし私は今、それを失くしたことを冬哉に報告してしまうほどには、まだ混乱の中にいるらしい。
「それに、なにか来るんでしょ」
私がいうと冬哉は首を振った。
「主膳は待たせておけばいい。杏里さんはこっちの都合で突然こんな場所に転移させられて、持ち物をなくしたんだ。それを放っておくのは、あまりにもひどい話だ」
冬哉はそういって、来た道を戻った。
こんな風にわかりやすく優しくされてしまうと、彼を強く警戒することはできなかった。
◆
「どこにいた」
私たちはそれほど苦労せずに、あやとりを見つけることができた。
参道へ戻ると、そこには大柄で屈強そうな中年男性が提灯を持って立っていた。闇に包まれていても、その眼光がかなり鋭いことは感じられた。
待たされたことに怒りをにじませているのか、それが通常なのか、私には判断がつかなかった。
「いう必要はない。でも、主膳がここに来たのは無駄足ではなかったよ」
冬哉はそういって、私の前に提灯を出した。
「杏里さんだ」
提灯に照らされた私は「杏里です」と、あわてて頭を下げた。
「長野主膳です」
彼も私に深々と頭を下げてくれた。
トトが「しゅぜん」といった時は、まさか長野主膳であるとは少しも想像していなかった。
長野主膳。
井伊直弼の家臣であり、右腕といっても過言ではない人物である。
直弼の家臣になる以前の経歴は不明な点も多いが、国学者である。
「直弼様に様子を見てきて欲しいと頼まれたのだが、本当に転移術が成功したのだな」
主膳は私を凝視した。
私の格好を見れば、この時代の者でないことは一目瞭然のはずである。
「杏里さんは今から、約百六十年後の未来からきたらしい」
冬哉はいった。
「彼女の姿を見れば、疑う気も失せるな」
「杏里さんには、直弼さんの暗殺を阻止したいことは伝えた。協力してくれるらしい」
正確には「できることであれば協力したい」とはいった。しかしそれがまさか、井伊直弼の暗殺阻止であるとは思わなかった。そしてそれを阻止することは、無理だろうと思っていた。
「それは心強い。ありがとうございます」
主膳は再び、私に頭を下げた。
それから主膳は「これは、直弼様からです」と、私に風呂敷を差し出した。
「え、ありがとうございます。これは?」
「着物と、袴です。杏里殿は、着物をお召しになって下さい」
つまり着替えろということなのだろう。
「ずいぶん準備がいいな」
「直弼様が持っていけと、私に命じたのだ。冬哉の術は失敗しないからと、断言しておられた」
「そこまで信頼されても怖いけどな」
冬哉は失笑した。
「本日は混乱することも多いだろうから、今宵は歓迎だけさせて欲しいとのことです。それに着替えてもらったら、井伊家上屋敷にご案内致します」
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