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第五章【誤解されやすい】二月二十七日
◆
「くれぐれも、杏里さんを頼む」
直弼のその声を、私は冬哉に背負われた状態で聞いていた。
「この屋敷は、広すぎてな。密偵が紛れていないともいい切れないし、見知らぬ少女を住まわせると、たちまち噂になる」
「わかってる。その点、俺の家は狭くて安全だからな」
どうやらすでに屋敷の外にいるらしいが、私は自分がいつ座敷を出たのかさえ思い出せなかった。
なにかを話そうとしても、思考が全然まとまらなかった。
「明日、茶室で待っている」
冬哉は「うん」と返事をすると、私を背負ったまま静かに歩き出した。
私は冷たい空気に包まれ、夢と現の間を行き来していた。
うっすらと目を開けると、直弼はまだこちらを見ていた。小さく手を振ってみると、直弼も笑顔で手を振り返してくれた。
なんだか胸が痛くなるほどには、うれしかった。
うれしくて、涙がでた。
私が声を殺して泣いていることに気付くと、冬哉は「泣き上戸なのか」といった。
「なんだか、うれしくて」
一緒に食事をしてくれたこと、お酒を注いでくれたこと、自分の話をしてくれたこと、それらすべてがうれしかった。
そしてそれらすべてが、心のどこかで父に求めていたことだったと気付いてしまうと、また涙が出てくるのだった。
冬哉がいうように、私は泣き上戸なのかも知れなかった。
外気にさらされて目が冴えてきた私は、自分の足で歩くことにした。
冬哉は「本当に大丈夫か」といいながらも、私を背中からおろしてくれた。
「途中から記憶がないんだけど。未来の話とか、してないかな」
「どこから記憶がないのか知らないけど。いってないと思う。いってたとしても、聞いてなかったな。急に泣き出したと思ったら、そのまま眠ってた」
冬哉はなんでもないことのようにいったが、私は恥ずかしくて爆発してしまいそうだった。
そうして歩くうちに、酔いがまわったのか、私の具合はどんどん悪くなっていった。いよいよ限界が近づくと、私は足を止めた。
冬哉はすぐに状況を察したらしく、私を道の端に寄せると口の中に指を突っ込んできた。私が「え」と驚愕の声を上げる間もなく、私はその場で嘔吐した。
「ご、ごめんなさい」
吐いたせいか、私の目には再び涙が溢れていた。
「べつに、謝ることじゃない」
冬哉は酔っ払いの介抱になれているのか、通常運転であった。
「すごく、情けない」
誰かに迷惑をかけることが怖くて、ダメな自分を知られたくなくて、ずっと息をひそめるようにして生きてきた。
しかし今宵は、冬哉に迷惑しかかけていなかった。
冬哉は無言で、私の背中をさすってくれた。
その優しさに、また泣けてくるのだった。
「どうかしたのか。長くそこにいるようだが」
振り返ると、そこには長野主膳がいた。
「休んでいただけだ。少し飲ませ過ぎた」
冬哉がいうと、主膳は「そうか」と短くいった。
「直弼さんに、俺を見張れとでもいわれたか」
冬哉がいうと、主膳はふんっと鼻を鳴らした。
「私の一存だ。その足取りで無事に平河神社にたどりつけるか、心配だったからな」
「この辺は、そう物騒でもないだろ。いたずらに杏里さんを怖がらせるなよ」
「しかしなにかあった場合には、酔ったお前だけでは杏里殿を守れないだろ」
主膳はぶっきらぼうにいった。私のことは心配してくれている様子であるが、冬哉に対してはなかなか挑発的な発言だった。
「そもそも私は、お前を信用してない。妙な術を使うが、その術の効果も怪しいものだ。それに……」
主膳の言葉には明らかに棘があり、それ以上は続きを聞きたくなかった。
「あ、あの!」
私は少しだけ大きな声を出して、主膳の言葉を遮った。
「冬哉は、きっと、信用できる人です。だから、そんな、意地悪を、いわないで下さい。お願い、します」
直前まで嘔吐していたこともあり、さらには色んな感情が入り混じってしまい、私は涙を止められないままでいった。
私が泣きながら懇願したと思ったのか、主膳は「むぅ」と閉口した。
「無理にしゃべるな」
冬哉はそういいながら、私の背中をさすった。
「主膳が意地悪なのは、今に始まったことじゃない。それに仕事はできる男だ。俺たちは、ゆっくり家に帰ろう」
冬哉は主膳の言葉を本当に気にしていない様子だった。
私にとっては、それもなんだか悲しかった。
◇
それから私たちは、本当にゆっくり平河神社へと帰った。
平河神社に到着すると、主膳は無言で踵を返した。
「ありがとうございました」
私がいうと、主膳は小さく顎を引いた。
それを見送った後で、私たちは境内の井戸へ向かった。
「杏里さんは、怖くないのか」
井戸でちびちびと水を飲んでいると、冬哉はぽつりといった。
「なにが?」
視線を向けると、冬哉は静かに目を逸らした。
「俺のことだ。俺は見鬼である以前に、人に怖がられることが多い。妙な術を使うのは事実だしな」
「転移には驚いたけど、別に怖くないよ」
私はどちらかといえば、言葉がきつい人以上に、人を傷つける言葉を意図的に吐く主膳のような人の方が怖かった。
「なんというか、主膳に言い返してくれて、うれしかった。でも簡単に人を信用しない方がいいと思う。俺たちは、杏里さんを勝手な都合で転移させたんだ。なんだが、人が良すぎて心配になる」
冬哉はやはり目を逸らしたままいった。
「でも冬哉は、あやとりを探してくれたから。悪い人じゃないと思う」
冬哉は忘れていたらしく、そんなこともあったなという顔をした。
「なくしたものを探すくらい、誰でもするだろ」
「そうかもしれないけど、私は、冬哉がひどいことをいわれるのは、嫌だったの」
――お前を信用してない
主膳の言葉は、父を軽んじる大人たちを彷彿とさせるものだった。
親族らの言葉が、父に届いていたのかはわからない。
それでも私は口を閉ざすべきではなかったのかも知れない。
父は完璧な人じゃない。それでも私に必要な人で、大切な人だから、そんなことはいわないで欲しい。
そんな風に、自分の意見をいえていたらよかったのかも知れない。
そんな後悔が、今も心のどこかに存在している。
私の情緒は壊れてしまったらしく、再びほろほろと涙を流した。
「うぅ……」
「え、大丈夫か」
冬哉はそういって、手ぬぐいで私の顔を拭いてくれた。
「お父さんも、誤解されやすい人で、それを思い出してた。もっと、ちゃんと、私がなにか、いえてればよかった」
「誤解されやすい人ってことは、杏里さんの父親も見鬼なのか」
「ちがう。ちょっと、変わった人なだけ」
私はそういって鼻をすすった。
冬哉は「それは誤解されやすそうだな」と小さくいった。
「私のいた世界には、たぶん見鬼はほとんどいなかったと思う。この世界にも、見鬼は多くはないの?」
「そうだな。多くはない。それほど詳しくは知らないが、六十年前に伊能忠敬という人がある島を発見して、その島は妖怪も見鬼も住みやすいことがわかったんだ。その時に、大移動があったらしい」
今から六十年前というと一八〇〇年くらいである。
伊能忠敬が蝦夷地を測量していたのも、その頃だったはずである。
「昔は妖怪を相手にする妖将官という役職もあったらしいが、今はその職業も残っていない。日本にはすでに、人間に害のある妖怪は残っていないし、妖将官も見鬼の多くも、その島に移住したと聞いている。六十年も前の話だから、どこまでが本当なのかはわからないけど」
冬哉はそういって白い息を吐いた。
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