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第八章【よからぬこと】二月二十八日
◆
松成と別れて太郎坊神社を少し歩くと、離れと呼ばれる平屋があった。
その庭では老齢の男性が、焚き火をしていた。
「あれが、じいさんだ。名前は博為」
冬哉は私に小さくいった。
「じいさん!」
冬哉が声を掛けると、博為翁は顔を上げた。
冬哉の顔を確認すると、その表情はぱっと明るくなった。しかしすぐに、眉間にしわを寄せた。
「なんだ。なぜ、そんな頭なんだ」
冬哉に憑いている鬼虚以上に、冬哉の髪の方が気になったらしい。もしくは松成と目を共有しているらしいので、鬼虚には気付かないのかも知れなかった。
「必要があったから、切った」
「下法でも使ったのだろ」
冬哉は松成の時と同様に「どうかな」と適当にいった。
そして話を変えるべく、私を博為翁に紹介した。
「あなたも見鬼なんですね。私は浮島博為と申します。ほとんど引退しておりますが、ここの宮司です」
それから博為翁は私たちを縁側に座らせると、お茶を出してくれた。
「一恵が投獄されたと聞いたよ。驚いた」
冬哉がいうと、博為翁は苦笑した。
「ずいぶん派手に活動していたからな」
博為翁も松成も、一恵が投獄されたことに関しては、受け入れているようである。二人がいうように、それなりに派手に活動していたのだろう。
「一恵がそんなことになってるなんて、全然知らなかった」
「お前はよほどの用事がない限り、ここに顔を出さぬからな。今日は見鬼のお嬢さんを連れて、なにか聞きに来たのだろ」
博為はそういうと、お茶に口をつけた。
「水戸藩について、知っていることがあれば教えてほしい。ここは水戸藩のご贔屓だって、聞いたことがある」
冬哉はいった。
「水戸藩のご贔屓かはわからないが、参拝に来る者はいるらしいな。しかし深い意味はないと思うぞ。たぶんこの神社の名前のせいだ」
「太郎坊神社という名と水戸藩に、なんの関係があるんだ」
冬哉は不思議そうにいった。
「太郎坊という名は、天狗につけられる名であることは知っているだろ。水戸藩には天狗党と呼ばれる派閥があるから、それにあやかって参拝しているのだと思う」
「天狗党?」
「なんだ、知らないのか」
「水戸藩のことは、詳しくない」
「水戸藩主の斉昭は知っているだろ」
「それはさすがに知ってる。俺には無関係だが、直弼さんの政敵だろ」
冬哉がいうと、博為翁はうなずいた。
「斉昭は水戸藩に身分や年齢を問わず、卒業の概念を設けない弘道館という教育施設を作ったんだが、そこで知識をつけた学者たちは、斉昭を強烈に支持している。さらには斉昭が水戸藩主に就任すると、その学者たちは権力を持つようになった」
斉昭が水戸藩主になる際にも、後継者の問題があった。その時に活躍したのが弘道館の学者たちであった。そのため斉昭が水戸藩主になってからは、その学者たちは多く登用され藩政改革の担い手となった。
「その学者たちをよく思っていない者らは、彼らの驕り高ぶった態度を批判して、天狗党と呼ぶようになったのだ」
「あまりいい意味を持つ名ではないんだな」
「そうだな。しかし本人たちはその名を気に入っているらしい。だからここにも来るのだろ」
「この神社には実際に、太郎坊もいるわけだしな」
冬哉はなにかを探すように上空を見た。
「ここの神様は、太郎坊という天狗なんだ。たまにその辺を飛行してる」
冬哉は私にいった。
私もつられて空を見上げた。しかしそこには、青い空が広がるばかりである。
「水戸藩に見鬼がいるとも考えにくいけどもな。一恵がいた頃は、ここにもよく下りてきたものだが、今はあまり下りてこないな」
博為翁も私たちと同じく空を見上げていった。
「太郎坊は一恵に懐いてるんだったか」
「一恵は太郎坊の絵を好んで描いていたからな。それがうれしかったのだろ」
博為翁はそういうと、小さく生きを吐いた。
「しかし水戸藩の中は今、大きく揉めていると聞く。太郎坊という名前にすがりたい気持ちでもあるのかもな」
「幕府と揉めているわけでなく、藩内で揉めているのか」
冬哉はいった。
「孝明天皇の勅書を幕府に返納するか、しないかで、かなり揉めているようだ。天狗党の過激派は、幕府には絶対に返納しないと主張していて、直弼の弾圧を恐れる保守派の者たちは、早く返してしまえといった具合らしい」
水戸藩は勅書の存在によって、大きく分裂した。城内で切腹した者がいるほどには、当時は混沌としていた。
「天狗党の過激派は、水戸藩の者が勝手に勅書を返納せぬようにと、水戸街道を封鎖までしているらしい。そして脱藩して、よからぬことをくわだてている者もいるとかなんとか聞いている」
「それで神頼みか。しかし、水戸藩の中に見鬼がいないと考えるのは早計のように思う」
「見鬼がいるから、ここに参拝者がくると思っているのか」
「いや、こことは無関係の話だよ。水戸藩の中に下法を使う者がいる可能性を考えているんだ。最近、時の鐘に妙な気配を感じないか」
博為翁は心当たりがありそうな雰囲気であった。
「妙な音が混ざっている程度には思っていたが。冬哉がいうなら、気のせいではないのだろうな」
「下法を使う者が、時の鐘を利用しているんじゃないかと考えてる。時の鐘は呪術的には、大きな意味と作用がある。俺も術を使う時に、あの音を利用することが多い」
冬哉はちらりと私を見つめた。
私も暮れ六つの鐘で冬哉に呼び出されたせいだろう。
「そうだな。妙な術を使う者が、いないとは言い切れない。しかし、なんだ。水戸浪士の動向を探れと、井伊直弼に頼まれたのか」
「俺はただの見鬼だ。そんなことは頼まれないよ」
博為翁は「それもそうだな」と、薄く微笑んだ。
「これはただの独り言だがな。水戸浪士が、内藤新宿の岡場所に出入りしていると聞いたことがある。取り締まりが厳しいので、江戸の潜伏に難儀しているんだろうな」
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