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第九章【楽しそうな声】二月二十八日
◆
「主膳が、直弼さんを裏切ることはあるのかな」
太郎坊神社を後にすると、冬哉はぽつりといった。
「史実ではそういうことはなかったと思う」
「直弼さんは俺に妖術の本をくれるけど、その大半は主膳の趣味で集めていたものだと聞いたことがある。弘道館にそういう本がたくさんあったとすれば、下法を使う者が水戸藩にいても不思議ではない気がする」
冬哉はそういうと、空を見上げた。
そこにはただのカラスが数羽飛んでいた。
「小学生の頃、天狗をみた気がするの」
私はぽつりといった。
冬哉は「しょうがくせい?」という感じで私をみたので「七才くらいの頃」といい直した。
「天狗は神様としても、妖怪としても、日本にはそれなりにいるからな。杏里さんが出会っていても不思議ではないと思う。実害はなかっただろ」
冬哉は特に驚いた様子はなかった。
それほどに天狗とはめずらしいわけではないのだろう。
「さらわれるかと思ったけど、なにもされなかった。それなりに怖かったけど」
冬哉のいうように、実害はなかったわけである。
「妖怪の類は、人間をからかうのが好きだからな」
冬哉はそういうと、後ろを気にする素振りを見せた。
私もそれにつられて、後ろを見ようとした。しかし冬哉は私の肩を抱いて、それを阻止した。
「振り返るな。なにか、ついてきてる」
冬哉は私の耳元でいった。
「人?」
「人じゃない。杏里さんにもわかるはずだ」
自分の背後に神経を尖らせると、軽い足音がついてきているように感じられた。
「あの角を曲がろう」
冬哉はそういって、歩く速度を速めた。
私たちが道を曲がっても、その足音はしっかりとついてきた。
「たぶん狐狸の類だ。放っておくのも面倒だし、捕まえて話を聞いてみよう」
冬哉はそういうと、人差し指と中指を立てた。そして素早く振り返り、立てた指を虚空に指した。
「うわぁッ」
幼い声とともに、小さな獣がポテンと道に転がった。
「あ、カワウソか」
冬哉は冷静にいった。めずらしい生き物ではないようである。
カワウソは冬哉の術によって身体を拘束されているらしく、その場でもぞもぞと動くばかりであった。
冬哉はカワウソに近づくと、膝を折って話しかけた。
「話せるよな? 何者だ」
「アラヤ!」
カワウソは元気よくいった。
「飼われているカワウソか。厄介だな」
カワウソは「アラヤ」といっただけだったが、冬哉はそれだけでわかることがあったらしい。
「カワウソなら、酒は好きだろう。酒をやるから、お前の飼い主のところへ案内してくれないか」
冬哉がいうと、カワウソはそわそわし始めた。
交渉が成立しそうな雰囲気である。
「うちは神社だ。いい酒がたくさん献上されているぞ。遊びに来ないか」
冬哉が微笑むと、カワウソは「わかった!」と元気よくいった。
交渉成立である。
◇
家に帰ると、冬哉は約束通りカワウソに酒を与えた。
カワウソは目をきらきらさせて、それを口にした。
「これが妖術の本だけど、読んでみるか」
冬哉はそういって、私に分厚い本を差し出した。
「ありがとう。これを読めば、冬哉についた鬼虚を散らすことができるかな」
私はその本を受け取った。
「まだ鬼虚が見えるか?」
「うん」
薄くなってはいたが、私には鬼虚が見えていた。
「内容を理解できれば、だいたいの術は使えるようになると思う」
冬哉はそういいながら、上質な羽織りに袖を通した。
「俺は今から神職の仕事をしてくる。この辺にいるから、なにかあれば声を掛けてくれ」
当然であるが、冬哉は神職の仕事もしているわけである。むしろそっちが本業なのだろう。
「冬哉が留守の間、私になにか、できることある?」
「ない。ここにいてくれたら、それでいい。この家には結界を張ってあるから、カワウソが逃げることもないから、昼寝でもしていてくれ」
冬哉はそういうと、平屋を後にした。
実際に私にできることはないと思うが「ない」と、きっぱりいわれると清々しさまであった。
私は冬哉の言葉に甘えて、酒を飲むカワウソの横で、受け取った本を読むことにした。
本の中には触れたことのない知識が書かれており、私はすぐにそれに夢中になった。
「俺が出ていった時から、時間が止まったみたいな部屋だな」
「さけ?」
私はそれらの声で、ようやく本から顔を上げた。
そこには仕事を終えた冬哉と、トトがいた。
カワウソはお腹を上にして、すよすよと寝息を立てており、トトはその姿を興味深く見つめていた。
「灯りがないと、本が読みにくいだろ」
冬哉はそういって、行灯に火をつけた。
薄暗かった室内は、ぼんやりと明るくなり、外の世界は暗闇へと落ちていった。
「鬼虚を散らせるかも知れない」
長く無言だったせいか、そう発した私の声はかすれていた。
私も父と同様に、集中すると寝食を忘れる類の人間であった。
「わかった。でもとりあえず、宮司に夕飯をもらってきたから、それを食べてからにしよう」
冬哉は新しい知識を得て興奮気味の私を、落ち着かせるようにいった。
トトは警戒しながらも、カワウソの側で丸くなっていた。酒が目当てというわけでなく、単純に外が寒いので室内に入ってきたらしかった。
夕食後、冬哉は「じゃあ、お願いしようかな」と私に背中を向けた。
「ここで大丈夫?」
「大丈夫。ここは神社の境内だし、一応神域だから」
その辺の定義は曖昧らしい。
私は本に書いてあった内容を頭の中で反芻しつつ、人差し指と中指を立てて、ゆっくりと呪文を詠唱した。ぼんやりと指先が温まってくる感覚がある。それを充分に確認した後で、私はふっと指先に息を吹いた。
「あ、散ったな」
冬哉は鬼虚が霧散したことに、すぐに気付いたらしかった。
「すごいな。この短時間で」
私は冬哉の反応に大変満足し「へへ」と間抜けに笑った。
「杏里さんは理解する能力が高いんだな。そもそも見鬼としての才能は、元々あったんだろうな」
「この世界に来るまでは、全然そんな感じじゃなかったけど」
妖怪が見えると自覚したのは、つい昨日のことである。
「騙し絵みたいに、ある日を境にはっきりと見えるようになることもあるんだ。じいさんと松成が目の共有をしているのは、そのきっかけ作りなんだろうな。荒治療だとは思うけど、効果はあると思う」
騙し絵といわれると、妙に納得してしまう。
「それはそれとして、杏里さんがこの世界で妖術を使うのは、負担がかかるみたいだな」
冬哉はそういうと、私の鼻を手ぬぐいで拭いた。
私は鼻血を出していたらしい。それに気付いてしまうと、全身に疲労が襲ってきた。
「この世界に留まっているだけでも、杏里さんには色んな消耗があるんだと思う。しばらく横になっていた方がいい」
冬哉がその場に布団を敷いてくれたので、私は鼻に布を当てて横になった。
「昨日の今日で、情けない……」
鼻を抑えているせいもあり、私はとんでもなく間抜けな声でいった。
「昨日は別として、今日は名誉の負傷だ」
昨日は別とされた。
「鼻血を出したのなんて、子どもの頃以来な気がする」
私は言い訳をするようにいった。
「俺も術を覚えたての頃は、体調を崩すことがあったよ。少し眠るといい」
それから私はお酒の匂いが漂う室内で、私はうとうとし始めた。
私が眠った後で、父と母が二人でお酒を飲んでいることがあった。
二人は私と会話する時とは違い、ひどく落ち着いた声色でなにかを話していた。その内容までは聞こえなかったが、その気配が好きだった。
そんなことを久しぶりに思い出していた。
――杏里は、日に日にお母さんに似てくるね
母が亡くなった後で、そういった父の顔を、もう思い出せない。
――杏里ちゃんはお母さんに似ているから、苦労もあるかも知れない
祖父はそういって、私にアンティークメガネをくれた。
私は母に似ていることが、うれしかった。しかしそう思っているのは、私だけなのかも知れない。そう思ってしまうと、私はひどく悲しい気持ちになった。
母の存在が薄れていくようで、寂しかった。
母の死を大袈裟に嘆き悲しんで、父や周囲の大人を困らせたりすればよかったんだろうか。
そう思った後で、そんなことは到底できなかっただろうと自嘲する。
「おっと。注ぎすぎたか」
冬哉がいうと、カワウソは素早くお猪口に口をつけた。
眠りの端にいたはずであるが、冬哉の楽しそうな声で、私は現実へと戻ってきた。
カワウソはいつ目が覚めたのか、冬哉とともに酒を飲んでいる。トトはよほど疲れていたのか、冬哉の側で眠るばかりだった。
気持ちが下を向いていたように思うが、誰かが同じ空間にいてくれるだけで、安心できるのだから不思議なものである。
「なんだか、眠るのがもったいない」
私は小さくいった。
「なんだ。眠ったのかと思った」
冬哉は私を振り返った。
「ちょっと眠ってたかも」
「この世界では疲れることも多いだろ。このまま眠っていいぞ」
冬哉の顔はすでに赤らんでいた。
「なんだか幸せで、眠りたくない。眠る直前まで、誰かが側にいてくれることが、ほとんどなかったから」
「そういうものか。俺はここに一人で住むようになってからの方が、よく眠れるようになった」
「そうなの?」
「そう思う。浮島家は俺の居場所ではなかったし、奉公先も自分の居場所だと思ったことはなかった。でも俺はこの神社に雇われて、直弼さんが俺の才能を認めてくれて、ようやく静かに眠れるようになった気がする」
室内の光がぼぅっと揺れて、自分たちだけが切り離された世界に存在しているような、そんな気持ちになる。
「誰かに頼りにされるというのは、単純にうれしいものだ」
冬哉はいった。
「私は、冬哉を頼りにしてるよ」
私はうとうとしながら、冬哉にいった。
「なにもしていないが、それはうれしい限りだな」
「冬哉が私のいた世界にいれば、私は今ほど寂しくなかったかも知れない」
「特になにもできないと思うがな。まあ、酒に付き合うくらいはできるが」
「お酒はもう飲まない」
私は即座にいった。
「そうなのか。じゃあ、なにかしてほしいことはあるか」
「なんだろう。予防接種とか」
私は半分眠りの中にいたが、はっきりといった。
「なんだ、それは」
「病気を防いだり、軽度にする注射。冬哉と一緒に生きられるなら、長い方がいいから」
冬哉は「注射かぁ」と小さくいった。
布団の横には冬哉がいて、その側には眠っているトトがいる。そして冬哉の向かいには、楽しそうに酒を飲むカワウソがいる。
こんな意味のわからない空間で、私はとても幸せだった。
私はたしかに、幸せの中にいた。
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