離婚届にサインしてください

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離婚届にサインしてください

 全てはソフィアの計画通り上手くいっていたはずだった。  彼女がブラッドリー・マゼンダ王子を謁見して直ぐに彼から提案を受け入れると言う知らせが来た。  彼女はクローゼットを開け、まだ公式の場面に着ていっていない淡い水色のドレスを見つめると服飾デザイナーを王宮に送り込んだ。  自分の持っているドレスとペアになる礼服を、バースデーパーティーの日にブラッドリー王子に着てもらう為だ。  予定通り、バースデーパーティーでブラッドリー王子はソフィアを婚約者として指名した。  彼女は後は離婚するだけだとほくそ笑み、パーティー会場をシャンパングラス片手に出た。  生暖かい風を感じながら、星空を眺める。  彼女は思った通りに事が進んだことに乾杯しながら、これからの人生について夢を膨らませていた。  彼女は宝飾品店をもっと世界展開したいと考えていた。  前世で彼女は、会社でもっと出世して自分の裁量を持ちたいと思っていた。  彼女は前世で貧しい家庭に育っていて、昔からお金に苦労しない稼げる大人になるのが夢だった。しかし、その夢は無惨にも撲殺され絶たれていた。  この時のソフィアは気がついていなかった。  自分が『金』を飽くなく求めるように、『愛』を求め続けている男がいるという事を⋯⋯。  その渇望と強い想いが彼女が前世の記憶を引き継いだように、人智を超越した現象を今引き起こしている事を⋯⋯。  王宮の庭でソフィアが1人良い気分でシャンパングラスを傾けていると、パーティー会場から出てくる目立つ男女が2人いた。  銀髪に憂いを帯びたエメラルドの瞳をした麗しい美青年と、赤毛の色気のある美女。    彼女の夫であるアーネスト・グロスター伯爵と夫の元カノであるシェイラ・アルマン伯爵令嬢だ。  明らかにシェイラ嬢は人目を気にしていたので、ソフィアも見つからないように遠くの木陰に隠れて様子を見た。    月明かりに照らされながら抱き合う美男美女の光景はまるで絵画のように美しかった。  ソフィアは全てうまくいっている事に満足して、グロスター伯爵邸に戻り離婚届の自分の欄を埋めて夫の帰りを待った。  ♢♢♢  深夜になり、やっとアーネストがグロスター伯爵邸に帰宅した。  かなり飲んでいるのか、いつも宝石のように輝いている彼のエメラルドの瞳は虚ろだった。  そのようなアンニュイな様子も非常に美しく色気に溢れている。  ソフィアは彼が殺人鬼でなければ、自分は周りの言う通り幸運な女だったのかもしれないとため息をついた。 「随分と遅い帰宅ですのね。実は私、王宮の庭園でアーネスト様とシェイラ嬢の熱い抱擁を見てしまいました。結婚しても、2人の関係は続いていたのですね。私はそのような不実な方とは結婚生活を送れませんわ」  ソフィアの言葉にアーネストは悲痛と諦めの表情を浮かべた。彼の目は涙の膜が張っていて、男の涙を見た事がない彼女は少し怯んだ。 「ソフィア、もう本当に俺たちは無理なのか? 信じて貰えないとは分かっているが俺が愛しているのは7年前から君だけなんだ」 「散々、沢山の女性と浮き名を流して来てよくそのような事が言えますわね。さっさと、離婚届にサインしてください」  ソフィアは足元がおぼつかないアーネストの手を引き、彼の執務室まで連れて行く。  真っ暗な執務室だが、ちょうど窓から月明かりが差し込んでいてほんのりと明るかった。  彼女はさっさとアーネストに離婚届にサインをさせてしまおうと、明かりをつけるのを省略した。彼に署名、捺印をさせるだけなのだから、月明かりだけでも問題ない。  彼女は強引に虚ろな彼を椅子に座らせ、手に羽ペンを握らせ離婚届にサインをさせようとする。 「君は俺と別れてブラッドリー・マゼンダ王子殿下と一緒になるつもりなのか?」  アーネストの声は微かに震えていた。  ソフィアも彼が自分とは離婚したくないのだと本当は分かっている。 それでも、アーネストが自分を殺す可能性があるから無慈悲に彼を突き放すしかない。 「その通りです。私とブラッドリー王子殿下は相性が良さそうですし⋯⋯」 「相性? 彼は君の財産目当てなんじゃないのか? マゼンダ王家の財政は火の車だ⋯⋯」 「別に構いません。王子殿下は可愛いから許します」  アーネストの言う通りでマゼンダ王国の王族になったら、それなりに金銭的な苦労をする。  それでもソフィアは自分の金を稼ぐ能力に絶対的な自信を持っていた。  金銭的苦労と命の危険を天秤に掛ければ、当然ブラッドリー王子を選ぶ。  なかなか離婚届にサインをしようとしないアーネストに、ソフィアはヤキモキしてきた。  彼の手の上から羽ペンを強く握り、インクをつけ無理やりサインをさせる。 「可愛さとは顔の事か? 可愛さがあれば君に愛されたのか?」 「はぁ⋯⋯顔もそうですが⋯⋯アーネスト様も昔は可愛かったですね」 「俺との初めての出会いを覚えているのか?」  突然、アーネストはソフィアの手を握ろうとしてきて、彼女は慌ててその手を避けた。彼女が引いた手がぶつかった弾みにインクの瓶が転がって床に黒いシミができるも、離婚届は無事だった。   「初めての出会い? なんの事でしょう。アーネストがリットン子爵邸にプロポーズしに来るまで私は貴方の事を女遊びの激しい不誠実な男性という認識しかしてませんでしたわ。ただ、昔は可愛らしい美少年で有名でしたわね」  アーネストの目から一筋の涙が伝って離婚届に落ちた。  彼がしたサインが少し滲んでしまったが問題ないだろう。    落ちた涙が宝石のアクアマリンのように美しくてソフィアは思わず見惚れてしまう。そして、流石に言い過ぎたと彼女自身も反省した。 「アーネスト、早く捺印してください」  ソフィアはわざと冷たい口調を使いながら、机の引き出しを上から順番に開ける。しかし、家門の印鑑は見つけられなかった。 「今、持ってくるよ⋯⋯」  消え入りそうな声でアーネストが呟くと、彼はゆっくりと立ち上がった。  彼は本棚に向かい、上から3段目左側から2番目の紫色の背表紙の本をとる。突然、忍者屋敷のように本棚の位置が動いて本棚があった床下に隠し扉が現れた。アーネストは床下の扉を開けると、地下に続く真っ暗な階段をふらふらと降りて行った。  しばらくして、アーネストが左手に赤ワインのボトルと右手に2つのワイングラスを持って現れた。 「あの⋯⋯今、必要なのは家門の印鑑なのですが」 「ちゃんと持ってきたよ」  アーネストは机の上にワインボトルとワイングラスを置く。  そして、礼服の内ポケットから家門の印鑑を出した。  彼はソフィアに急かされるように離婚届の自分のサインの横に捺印をした。  その瞬間、ソフィアは自分の生き残れる未来が保障されたのだとホッとして笑顔になる。 「ソフィア、君をそんな風に笑顔にしたかった。本当にずっと君だけを見つめ続けて生きて来たんだ。君と夫婦になれる未来があるなんて思ってもみなかった。喧嘩ばかりだったけれど、今まで生きてきた中で1番幸せな1週間だったよ」  穏やかな声でアーネストは自分語りを始めながら、ワイングラスに持ってきた赤ワインを注いだ。  ソフィアは離婚届を手に入れた安心感から、ホッとして目を瞑り彼の語りを黙って聞く事ができた。 「俺と君が夫婦だった時に乾杯しよう」 「ええ、アーネストも幸せになってくださいね。2人のそれぞれの未来に乾杯!」  ワイングラスを受け取りながら、ソフィアは微笑んだ。  2人はワイングラスを静かに合わせて乾杯をする。  ソフィアは月をバックにし儚く微笑むアーネストは、本当に美しい夫だったと彼を思い出にしようとした。  赤ワインを一口だけ口に含むと想像とは違う苦味が混じっていて、ソフィアは顔を顰めた。  「ソフィア、1度君を手にしてしまう幸福を知ってしまった俺は君を手放せなくなってしまった。哀れな男だと笑って欲しい。天国で、また君にプロポーズするよ。そこで、断られたとしても、何度でも生まれ変わって君だけを愛したい」  アーネストの口の端からつぅっと血が滴った。  その光景が美しいヴァンパイアの出てくる映画のワンシーンのようだと思った瞬間、ソフィアの喉元に何かがせりあがってきた。  ガハッ!  ソフィアは勢いよく血を吐いて倒れた。  手から滑り落ちたワイングラスの破片が、あたり一面に飛び散る。  ソフィアは薄れゆく意識の中で、倒れていても美しい芸術品のようなアーネストを見た。
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