その銅像は倒れない

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 割れんばかりの拍手を背中に浴びながら、男は舞台から素早く身を引いた。先程までステージの中央を踏みしめていた足は今や、狼から逃げる子羊のように走り続けている。男は地を蹴ることだけを己の下肢に課して、一目散に奥の小部屋へと向かった。  焦燥感が欲望へと変わるのは、一瞬のことだ。追われていた子羊は、部屋のドアを叩きつけるように開き中にいる女を眼にした途端、狼に変貌した。  異様なほどに滾るのを感じた。考えるよりも先に手が伸び、女の白く滑らかな肌に指が沈む。軽い体を引き寄せて自身に密着させてから、首筋に舌を這わせるのにさほど時間は要さなかった。  鮮血が吹き上がった。それこそ噴水のように高く、力強く。今の今まで生き永らえていた女の内側にある、生命の力強さのように。  食い千切る音と細かい咀嚼音が連続し、間に挟まる肉を飲み込む音が、それらを連結する。男の食事の風景は、さして語る必要もない。強いて言うなら赤い、それだけだ。  室内にある唯一の光源、卓上の小さなランプが、光沢を異常に誇張させている。  異常なのは、男も同じだ。彼は数分前まで壇上に立ち、国中の注目と憧憬、そして涙ながらの握手を受け取っていた。それが今は、若い女を貪り食っている。  比喩ではなく、物理的に。生物学的に。その体内に取り込んで、生きていくための栄養として。  ようやく、女の赤い躯から顔を上げた男が、口元を拭う。本能に駆り立てられていた両眼に、少しばかりの理性が戻る。  それから一気に血の気が引いていき、恐る恐るといった様子で自分の両手を見下ろした。ぬめった赤に、てらてらと光沢の走る手を目の当たりにし、男は目に涙を浮かべる。声すらも出ず、息継ぎだけを必死にしようとして呼吸を乱す。足を震わせるやいなや、膝から崩れ落ちた。  溜まった血溜まりの飛沫が、わずかに跳ねる。  嗚呼、悲しいかな。これが実は、一国の英雄なのである。戦禍に見舞われ、夢や希望どころかその日の生きる意味さえ見失った国民を誰一人残らず掬い上げ、見事に国を建て直した高潔な男なのである。  この異形の変化に誰が気づこうか。しかしながら恐ろしいことに、それは誰もである。国民のすべてが、彼の変化を知っていた。男が、かつて英雄と呼ばれた頃と同じではないと知っていた。  それでも開かれたのだ、今日の式典は。  全てを賭して国を助けた、高貴なる男を称えるために。
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