その銅像は倒れない

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 狭い部屋の中に延々と響いていた咀嚼音も、少しずつ途切れていった。どんな獣も、いつしか腹は膨れる。その時が来ただけだ。 「もう、お食事はお済みですか」  背後に女の声を聞き、その意味を理解できるほどには理性が戻ってきた頃。男は、我に返りながらへたりこんでいた。  食い散らかされた肉、骨の欠片、床を伝い壁に垂れ続ける血。さっきまでそれらが構成していたのは、生きた人間の女だったはずだ。それをこうも無惨な状態にしたのは、自分である。その事実に吐き気を催し、思わず彼は口を手で抑えた。  途端に、べっとりした感覚が口の周りを覆った。血液だと理解するのにそう時間はかからず、ますます嘔吐感が助長される。臭いも光景も後悔さえも無視して、彼は地面に片手をつき、ひどくえずいた。  不快感と嫌悪感だけが感覚を支配する。物理的な気持ち悪さが、幾度も男を襲った。だが、嫌な感触は永遠ではなかった。  いつの間にか、背中に温かさを感じていた。人間の体温だ。先ほど声をかけてきた女が、男の背筋をさすっている。赤子にするように、ひたすらに優しく、何度も何度も。人間の無惨な亡骸が転がる部屋の中で。 「エリ、エリン・・・・・・エリン、俺は」  激しい息継ぎに乗せた言葉は、主語を反復するだけだった。雫が頬を伝うのを感じていた。問いにもならぬ問いが、男の口から漏れ続ける。しかしその意味を察したかのように、エリンは穏やかな口調でささやいた。 「今しがた召し上がられていたのは、若い女です。英雄様のことは大人たちの話の中にしか聞いたことはないが、荒れていたこの国を立派に再建してくれたのは素晴らしいことだと。今までの生贄の中でも類を見ないほど、献身的でしたよ」  返答の言葉に、男への忌避感はない。エリンはさも当然といった様子で男の食人を正当化した。そして、緩やかに彼の顎元へ指を滑らせる。  細く白く、しなやかな指先が唇を艶めかしく撫でた。艶やかな薄い肌が、旨そうだった。
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