その銅像は倒れない

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「食べますか?」  魅力的な問いかけの答え方は、決まっていなかった。否定の意思を出しあぐね、断りを言いかねる。零す涙が、否定の意に代わると思っていた。無意識に開いた口は、しかし、言葉を発さぬままにエリンの指先へ食らいついた。  柔らかい肉に歯を突き立て、流れる血をすすり骨を削ってやるという衝動が抑えられない。溢れ出る赤い液体をいっぱいに浴びて、獲物の匂いに浸りたい、そんな感情が腹の底から湧き出てくる。  再び途切れ始めた理性を、必死に繋ぎ止めようとした。だがそれはできないまま。肉を欲する牙が、エリンの指先に沈み込んでいった。  涙が頬を垂れ、口元を濡らし、顎下まで伝う。嫌悪感に吐き出そうとする胃液がぼたぼたと口の隙間から漏れ、彼女の指先をなぞって手のひらに流れ込む。それさえも止められない。異常な食欲に理性は勝てない、本能なのだから。  細い骨を噛み砕きながら、男は呻く。肉を食みながら、男は懺悔を吐こうとする。もちろん声にはならない。言葉にならない。  おまけに、食われている方のエリンが協力的ともなれば、ますます正気を保つのは難しい。生理的な涙を流し続けながら、男は彼女の柔らかな手先を食い尽くし、ついには腕まで齧りつこうとする。 「そんなに焦らなくても、逃げやしませんよ。ああでも、高貴なる英雄様。どうか私の両の目だけは、食べないでいただけますか。貴方様のことが見えなくなるのが、一番つらいのです」  ほとんど震えることもないエリンの声が、男には届かない。恐ろしい自責の念に駆られる悲鳴と、欲望を満たすことしか考えていない唸り声が混じっているのだ。彼の鼓膜の中で、脳裏の奥で。  かなぐり捨てたい理性も、なんとか繋ぎ止めておきたい本能も、どちらも飼い慣らせていない、哀れな男だった。それが、かつてのこの国にとっての英雄だった。
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