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空は灰色の雲に覆われていて、今にも泣き出しそうだった。湿度の高い生ぬるい風が半袖から出た腕に絡まる様に通りぬける。
「なずなちゃん、あたしね、転校するんだ」
「……え」
学校の帰り道、親友の千冬が突然言った。
背中に背負ったランドセルの肩掛け部分をギュッと握りしめて。表情を見れば目に涙をたっぷりと溜めて、こぼれ落ちない様に必死に唇を噛み締めていた。
「……どこに?」
「遠くに」
「遠く? って、もう、千冬と会えないの?」
あたしの不安と同時に空がかげりを増して、強い突風が吹いた。ポツリ。生暖かい何かが腕に当たる。
目の前の千冬の涙が風で舞い上がった様に見えた。次の瞬間、ぼろぼろとこぼれ落ちていく。心臓が、掴まれたみたいに苦しくなった。
「千冬、ちょっと来て!」
「……っ……」
夢中で、千冬の細くて色白な腕を掴み、引っ張っていく。
驚きながらも、何も言わずに着いて来てくれる千冬の手を、ギュッとしっかり繋ぎ直す。そのまま、小学校のすぐ横の坂を登りはじめた。
小学生にはちょっとキツい坂。だけど、ここを登り切ると街が一望できる。あたしの大好きな場所に辿り着く。
はぁはぁと息が切れてきた頃、まだ改装途中の雑貨屋に着いた。
「こんにちはー! 青ちゃんいるー?」
大きな声で叫んで、所狭しと大きな段ボールやアンティークな家具の積まれた店の中を見渡した。
ガタガタと奥の方から音が聞こえたかと思えば、大きな背中が見えて、のっそりと髭面の男が起き上がって出てきた。
その姿に驚いたのか、繋いでいた手を強く握りしめて、千冬はあたしのランドセルの後ろに身を隠した。
「あ! 青ちゃんいた! ねぇ、あれ! 出来てる?」
「おぅ、なずな。元気だな、お前は」
腰を伸ばして腕を高く上げた青ちゃんは首をゴキゴキと鳴らす。ますます巨大な熊に見えてくる。途中、段ボールに阻まれながらもゆっくり近付いてきた。
「あれってなんだ?」
「頼んでいたやつ! 出来上がった!?」
目の前までようやく辿り着いた青ちゃんに期待しながら、笑顔を向ける。
「ほら、星と花のやつ!」
「…………ああ」
しばらく考え込んでから、思い出した様に頷く青ちゃんに、期待の眼差しを送る。
「まだに決まってんだろ。見てみろよこの状況」
一気に期待は打ち砕かれて、ムッとしてほっぺを膨らました。
「むぅー、分かった。もういい」
「あ? 何怒ってんだよ。お前小学校卒業するまでに出来れば良いって言ってたじゃねぇか」
「事情が変わったの!」
「なーにが事情だよ。小四のガキが……ん? 友達、泣いてないか?」
あたしの後ろに隠れていた千冬に気が付いた青ちゃんが近付いた瞬間、繋いでいた手をパッと離すと、千冬は入り口から外へと出て行ってしまった。
「……あ、あれ?」
「青ちゃん、顔も髭も、熊みたいできっと怖かったんだよ。最低」
ベッと舌を出して、急いで千冬を追いかけた。
外に出ると、しゃがみ込んで小さくなっていた千冬をすぐに見つける。
「ごめん、千冬、大丈夫だよ。青ちゃんはね、あたしのお姉ちゃんの彼氏なんだ」
「…………熊かと思った……」
真っ青な顔をして見上げた千冬に、あたしは「だよね」と、笑った。
ポツリポツリと泣き出した空を見上げて、空き家の軒下へと雨宿りに入った。
「さっきの青ちゃんね、見た目は熊さんみたいなんだけど、すごく綺麗でかわいい小物を作れる人なの」
「……かわいい……?」
「それでね、青ちゃんにオルゴールを作ってほしいってお願いしていたの。卒業する時に、千冬にあげようって、決めていたんだ」
ずっとずっと、千冬と仲良くいられます様にって。
「ねぇ、千冬」
「ん?」
「約束しない?」
「……約束?」
「うん! 十年後、またここに戻って来るって」
「……十年後……」
シトシトと降る雨は、山に自生する藤の花を濡らす。雫が花びらを伝いながら落ちてはまた流れていく。
「一九歳か二十歳! そうしたらさ、もう大人だよね? あたし達。千冬一人でも、ここまで来れるよね? だから、覚えていて。十年後、あたしたちはまた、この場所で会おうって」
千冬に向けた小指。まだ僅かに揺らめいていた千冬の瞳が、細くなる。
「うん、約束」
絡まる小指。千冬は華奢だった。
いつも日陰を求めて日に当たらない様にしていて、肌は透き通るほどに真っ白で。体育は苦手だからとほとんど見学。
だけど、たまに「楽しそうだね」と羨ましそうに言う時もあった。千冬も本当はやりたいんじゃないのかなと思った。
なんにでも一生懸命。あたしが弱音を吐くと必ず「頑張って」と応援してくれた。
千冬がいてくれたから、あたしは何事も諦めたりしなかった。千冬が転校していってしまってから、寂しくて泣いた。だけど、また千冬と会えることを信じて、あたしは涙を十年後の希望へと変えた。
ねぇ、千冬。
覚えてる?
あの日交わした約束。
十年後、ようやく会えた千冬は病院のベットの上だった。
あたしたちは確かにまた、再会できた。
まさか、千冬がずっと苦しんでいただなんて
あたし、これっぽっちも知らないで、今まで生きてきたんだね。
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