彼と彼の子と私と珈琲の香り。

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 もしも人生にリセットボタンがあったら、私は間違いなく押している。そう、まさに今がその時だ。  何気ない毎日、退屈なくらいのそれは何年も前からずっとここにあって、そしてきっと永遠に続いていく。ずっとそう思っていた。  朝はコーヒーの香りが一段と心地よい。私は、幸人君のいれるコーヒーの香りが世界で一番好きだ。一生この匂いに包まれていたいくらい。  この素晴らしい香りを消し去るように、幸人君はため息をついた。 「ひお、話さなきゃいけないことがあるんだ」 「なに」 「あのさ」  幸人君が次の言葉を紡いだとき、ぐらりと世界が揺れたような気がした。ガツンと頭を鈍器で殴られたみたい。目の前にあるホットケーキがぐにゃりとまがって見えた。  何気ない退屈なくらい平和な毎日は、ずっとそこにあって永遠に続くものだと思っていた。思い込んでいた。それがいかに尊くて、得難くて、幸せな日々だったのか。生きるために必要なものというのは失ってから初めてその価値を思い知らされるわけだ。この瞬間の私のように。  神様、私はあなたのことを信じたことなんか一度もないけれど、もしもいるならお願いします。幸人君が言ったことを、全部なかったことにしてください。
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