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誰かが玄関の呼び鈴を鳴らしているのだ。――誰が? なんて、そんなのここの住民に決まっている。
あれほど騒がしくしたのだ、苦情のひとつやふたつ出るのも道理だ。
ジェイミーは荷物を掻き分け、慌てて玄関に向かった。
――なんということだ。これが噂のご近所トラブルというやつだろうか!
穏やかな新生活をスタートさせる予定だったのに、はじめから躓いてしまった――にもかかわらず、ジェイミーはどこか嬉しそうだ。生家であるハッター家の屋敷で暮らしていた頃は、ふつうのご近所付き合いとは無縁だったのだ。
「やあ!」とジェイミーが扉を開ける。
そのあまりの勢いに、扉の前に立っていた青年がビクリと震えた。
「あの、僕は隣の者なんですけど……」
満面の笑みで飛び出してきたジェイミーに困惑を隠せない様子だ。
「すごい音がしたので……大丈夫ですか?」
大人しそうな隣人は、おどおどした様子でジェイミーを見上げる。
小柄で華奢な青年だった。
ミルクティーのような優しいブラウンの髪はふわふわで、肌は透けるように白い。くりっとした大きな目、小さな鼻の上に丸い大きな眼鏡が乗っている。
彼からは古い紙と、インクの匂いがした。
想像したような苦情ではなさそうで、ジェイミーはにっこり笑って「どうもはじめまして」と挨拶した。
「引っ越してきたばかりでして、バタついていてすみません。うるさかったですよね?」
「いえ、あの、大丈夫です」
あんまりすごい音がしたから、心配だっただけで……と隣人の彼はもごもごと口籠もる。苦情を訴えるためではなく、心配して様子を見にきてくれるなんて、彼は親切で優しい人らしい。
それから「僕はもう出掛けますので、気にせず続けてください」と言った。
その顔色で出掛けるのか、と思わずジェイミーは引き留めそうになった。
白い肌は、本当に血管まで透けて見えそうなほどで、青白く血の気がない。目の下には隈があり、どう見ても具合が悪そうだ。
しかし出会ったばかりの青年に掛ける言葉が見つからず、「それじゃあ」と言って去ろうとする彼をジェイミーは黙って見送った。
クッションの山から無事脱出したリーアムが、乱れたくすんだ金髪を整えながら「誰だったんだい」と尋ねた。
「ん? お隣さん。いい子そうだったよ」
たずねた割に、リーアムはさほど興味がなさそうに「ふうん」と気のない相槌を打つ。
「あと、いい匂いがした」
古い紙とインクの匂い。その匂いに隠れて、ほんのり漂う蜂蜜のような甘い香り。ジェイミーは鼻がいいのだ。
あんなに顔色が悪くて、大丈夫だっただろうか、とか、そういえば、名前も聞いてなかったな、とか。隣人のことを思い出しながら、とりとめのないことを考えていたら、「新しい恋でも生まれそうかい?」といくらか興味を持ったらしいリーアムが言った。
「どうだろうね」と答えながらも、それはないだろうな、とジェイミーは思った。
もうどうにもならないことはわかっているけれど、当分は『彼』を忘れるなんてできそうもないのだから。
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