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満天の星の下
バイトを終えて、逃げるようにスーパーを出る。
あの後の顛末をあんまり覚えていない。気がついた時にはエンジの背広を着たスーパーの店長が僕と中年の仲裁に入り、なんとかことを収めていた。それからなぜか三谷さんが僕を庇って一緒に店長に謝ってくれた。プンプンした店長に散々頭を下げた後、花屋へ戻った僕に三谷さんは「君なかなか素敵だぞ」と一言褒めてくれた。
そんなことを思い返し、リュックを担いで暗い裏道を歩いていると、
「よ」
とショートボブの加賀美が僕を待ち伏せしていた。
「よ、だなんて気分じゃない」
「あんたヒーローやって」
「うるさいぞ」
ただただ恥ずかしいのだった。僕は内気な男だ。あんな人前で歌いだすだなんて、自分のキャラじゃない。パラパラ漫画の猫と鳥どもの悪い悪戯だ。
一緒に帰ろう、だなんて言ってもいないのに、加賀美は僕の隣でトコトコ歩いている。
「あのノートな。実はあたしのなんよ」
はあ?
「あたしね、アニメーター志望なん」
「でなんで人文学部なんだよ……ていうか、あのパラパラ漫画は加賀美が描いたのか、マジで」
「マジやから。あのな、あれ見とると、勇気でるん。あたし、内気やからな」
「どこが内気だって」
「ほんまやって」
住宅街の街灯も少ない道の真上に、星空が広がっている。
「勇気ださな、って思うときにな、あの漫画パラパラするん。なんか魔力があるんよ。でね、たまたま講義で一緒になった東海林君がノート貸して言うてきて。後で分かったんやけど、それサエキ君に行っとったんね」
そういうことなのか、と僕は黙った。
「いっつも大人しいサエキ君が大学でヒーローになってん。友達みんなサエキ君ファンになっとって、タカラヅカやわあって」
勘弁してくれ。タカラヅカとか、マジで。そういう柄じゃない。
「でな、あたしずっと……サエキ君に伝えたいことあってん」
おや。右手の児童公園の滑り台の陰から、ハチワレが顔を出してるぞ。
「サエキ君見とったら、あたしも勇気ださなって思って。恥ずいけど、言わせてな」
ピーピピーピーピピー
ソレ
ユウキ ハイ! ダサナ!
ア ソレ
スッキスキスキスススススー
ハイ!
「ずっと好き好き。サエキ君。あたしといっしょに踊りませんか」
レーリレリ レーリレリ レーリレリホー
イェイ!
ズンダッタ ズンダッター
不意打ちに心底驚いた。まるでダンサーみたいにクルリと回って加賀美が歌っている。真っ赤な顔で僕を見上げた。
「……あかん?」
あ、あかんくない。ちょっと感動した。
「やっと言えて、スッキリしたあ」
加賀美が僕の手を握ってきた。胸が跳ねた。
「で、サエキ君の答えは?」
それ、出番だ! とハチワレたちが現れようとするのを、僕は手で制した。
諸君、大丈夫だ。もうお呼びじゃないから結構だぞ。
オホン、と咳ばらいをする。月明かりのスポットライトを浴びながら僕は片膝をついて高らかに歌い始めた。
(了)
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