謳われる物語

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 遠い昔に一匹の鬼女が居た。彼女の額に生える一本の角は聖獣の様に煌めいて鋭く、鍛冶屋にて研ぎ澄ませばどんな名刀も敵わない程の逸品へ化けると噂になっていた。無骨な性格だった鬼女は自身の角を奪おうとする野盗の類を返り討ちにして金品を巻き上げ、それを元手に裕福な生活をしていたのである。  鬼女の唯一の趣味は歌う事だった。夥しい血の暖色に塗れた彼女の半生において、旅人や時折遠方から来訪する鬼族の仲間達から聞かされる流行り歌をその強靭な声帯で再現するのは、闘争から離れた密やかな安らぎを与えてくれた。ただ、彼女は自身の歌声に関して二つの悩みを抱えていた。一つは音痴である事であり、春先の芽吹く前の蕾程度なら軽く吹き飛ばしてしまう声量と調和しない音程は、しばしば自然界からの冷淡な嘲笑を受けた。動物は金切り声をあげて気絶し、鳥の群れは統率する間もなく逃げ飛ぶ。その度に鬼女は頬を紅潮させて、その肉体を小さく強張らせてしまう。  もう一つの悩みは、その歌声を聞かせる相手が居ないという事だ。折角この私が歌うのなら聴衆は是が非でも欲しい、と傲慢な思考から村から人を攫って間近で聞かせてやろうかと息巻くが、それでは忌み嫌う野盗共と何も変わらない。何処にも受け入れてもらえなかった記憶は彼女を苦しめる呪いとして十分に機能していた。 「……やっぱり私には、歌なんて似合わないか」  この悩みを放置して鬼らしく本能の赴くままに闘争に身を任せようとした時、鬼族を信仰の対象とした神社が新しく作られた、という噂を鬼女は耳にした。中でも巫女は鬼族の世俗に詳しく、近所の村人達にその知識を教え回っていると(もっぱ)らの評判だったのである。同胞に歌声を聞かせたくなかった彼女はその噂に大きな口を開けて食いついた。 「この巫女って奴に聞けば、歌い方とか色々と教えてくれるかも……!」  鬼女は人間の意識を逸らす特殊な服を調達して(くだん)の神社を訪れる事にした。境内には老若男女問わず様々な人間が参拝を行い、清水と優しげな春風が遊んでいた。息を殺して本殿へと歩みを進める。情熱の瞳は急かれる想いの邪魔は行わず、硝子細工よりも繊細な風景を映している。居心地の良さに胸が蕩けてしまう様な、曖昧な快に心揺れる。
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