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1.後輩
「雫。お前今日の仕事は終わったのか?」
給湯室で若手女子社員と楽しく語らう後輩部下、高梁雫に、玲司は盛大なため息をついてからひと声かけた。腕を組み戸口に立つ。かけている眼鏡のレンズが光る勢いだ。
その声に女子社員共々、戦々恐々とした表情を浮かべる。
「すみませんっ! 樺主任。あとちょっとなんですけど…」
「雫。お前のあとちょっとは、昼過ぎからずっと聞いてるぞ。今は終業十五分前だ。あと十五分で終わるのか? それとも、残業していくつもりか? 申請はでていなかったと思ったが」
玲司が小言を言っている間に、話し相手だった女子社員は小さくなって給湯室を出て行く。
このフロアではかなり人気のある女子社員だ。今は総務課所属のはず。
今どきのアイメイクにチークにリップ。綺麗に整えられキラキラ輝くネイル。通り過ぎるとフワリと甘い香りがした。局アナばりに気合が入っている。
もっとも女性に食指の動かない玲司とってはどうでもいい事だったが、まだ二十代そこそこの男子には、垂涎ものなのだろう。理想の女子だ。さぞキラキラ輝いて見えるに違いない。
綺麗なのは華やぐし、いい事だとは思う。だが、こんな時は鼻に付く。
「あっと、その…今日はこのあと、若手の飲み会があって…」
まるで叱られて耳を伏せている犬のよう。
大手T銀行入社二年目。名前呼びなのは、同じフロアに『たかはし』が三人いるからだ。間違いを防ぐため、皆、下の名前で呼ばれている。
雫は玲司の下に配属され、はや数ヶ月。
見た目だけだと、浮ついた軽い印象を受けるのは否めない。
髪はカラーリングしているのか、やや茶色く色が抜けどこか柴犬を思わせた。くせ毛らしく、セットしているだろうに、いつもどこか一部が勝手にふわふわ跳ねている。
仕事内容には営業もある。そこまで派手では無いが、身だしなみは今どきの若者らしく、流行りを外していなかった。
しかし、見た目に反して仕事振りは堅実だった。今回の様に、仕事を途中で放り出すような事はしてこなかったはずだが。
とうとう化けの皮がはがれた、と言う事か。
「…分かった。もういい。良く分かった」
組んでいた腕を解き、雫に背を向ける。
「主任…?」
「好きに飲んでこい」
期待した俺が馬鹿だった。
遠くで樺主任! と呼ぶ声がしたが、立ち止まるつもりはなかった。
主任になって、何人も新人を鍛えてきた。皆、相応の学歴と頭の良さを持っていて。叩けばそれなりに響いたが、大抵はごく普通の社員だった。
会社としてはそれで良いのだと思う。卒なくこなす事が出来る。それで十分だった。
が、今回、玲司の下についた雫は、初めこそもたついたものの、教えた事はきちんと飲み込み、自分の中で咀嚼し仕事のノウハウを自分のものにしていった。それを展開し、ほかの仕事へ生かすことができたのだ。
叩けば響く。きっともっと。
確かに今はまだまだ。だが、沢山の新人を見てきた玲司には、他とは違うのがわかる。
上手く育てれば、自身の片腕にもなるくらい出来る人間に育つはず──そう思って、気合を入れて鍛えて来たのだが、それに反比例するように徐々に雫はやる気を失くしていった。
はじめこそ、意気揚々とこなしていた仕事も、他の社員と同じく卒なくこなす程度になり。途中で何処かへやる気を捨てた。
「やってられないな」
玲司は片手で目に落ちかかった前髪をかきあげる。どっと疲れが増した気がした。
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