89人が本棚に入れています
本棚に追加
3.お誘い
その週の金曜日、職場で残業をしていると、声をかけてきたものがいた。
「樺主任ー!」
雫だ。遠くから大きく手を振りながら、照明が落とされ薄暗くなった通路を、こちらへと向かって来る。
このフロアで残っているのは玲司と数名の職員み。点々とデスクライトのみが点されていた。
「どうした?」
確か数時間前、同期会だと早々に帰った筈だったが。雫は玲司のデスクの傍らまで辿り着くと、
「明日、お時間ありますかぁ?」
にこにこ笑いながら尋ねて来た。アルコール臭がかなりする。酔っているのだろう。玲司はやれやれと、眼鏡を一旦外すと目頭をもみながら。
「そんなことを尋ねるために、わざわざ戻ってきたのか? いいから、帰ってさっさと休め」
「だってぇ、樺主任の個人的な連絡先、知らないんですもん。で、さっき、思い立ったんです! この時間ならまだ職場にいるって。明日、誘おうって!」
「アルコールの力を借りてか?」
「うっ、ってまあ、そうなっちゃいますけど…。これでも結構勇気を振り絞って誘っているんですよぉ。どうですか? 俺のおすすめ喫茶店! 行きません?」
「お前は…。せっかくの休みだ。せめて彼女を誘え」
「ああ! それ言います? 言います? 最近、ふられて今フリーなんです…。で、明日、どうなんですかぁ?」
この酔っぱらいが。
玲司は深々とため息を漏らすと。
「…明日、お前が二日酔いじゃなく、覚えていたならな? ──ここへ連絡をよこせ」
そう言って、携帯端末の電話番号を付箋に走り書きして雫に渡した。受け取った雫はそれを掲げるようにして。
「やった! ここに絶対、連絡します! 出かける準備、しておいてくださいね!」
雫はそれだけ言うと、まるでスキップでもしそうな勢いで帰って行った。
酔った勢いで口にしているのだ。ひと晩、眠れば忘れてしまうだろう。半ば本気にしてはいなかった。
まったく、なんなんだ? あいつは。
何かしら理由がなければ、積極的に上司と休日を過ごそうとは思わないだろう。出世の為にそうする奴もいるかも知れないが、玲司は主任だ。媚を売った所で、出世コースに乗るというわけでもない。
趣味が合いそうというだけで、誘ってくるものなのか。玲司はため息をつく。
「さて、続きだな…」
考えても仕方ない。今どきの若いやつの思考なんて、理解しようもないのだ。
パソコン画面に映る資料に目を移す。来週、取り引き先に持って行く資料だ。これを今日中に終わらせれば、明日はゆっくり眠る事が出来る。休みの日まで仕事を持ち込みたくはなかった。
あの様子だ。どうせ、雫は誘いなど忘れてしまうだろう。
玲司は仕事に集中した。
最初のコメントを投稿しよう!