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歌好きなケイタは、全く朝から晩まで、歌さえ歌っていれば満足だった。
子供の頃から、そうだった。
あんたは、お乳を飲む間にも、何だか今にも、お歌を歌いたそうな風でいたよ。そうだったよ、ちいさなお口を、お乳を飲む合間にもね、ぱっくんぱっくんって動かしたりして、ね――母親は時々そんな昔ばなしをして、目を細めたものだ。
歌が好きで好きでたまらない、そんなケイタは、自然な調子で、おおきくなれば、歌を歌う人になりたいと夢見た。
だが、おおかたの夢がそうであるように、ゲンジツは甘くない、と知らせるばかりの鉄槌が、頭のあちこちにたんこぶをこさえてくれるようにも下され続けた。
学校を出て、音楽関係の専門校に通い、ボイストレーニングなどしながら、チャンスを待った。手当たり次第という勢いで、デモテープをレコード会社や音楽プロダクションへと送り、オーディションも幾つか受けた。だが、芳しい結果は得られなかった。
才能はあるみたいだが、空きがない、それが今のきみの不運だな、とあっさり言われた。
空きがない、つまり、同じような資質の持ち主達が疾っくにデビューして、活動している。
いくら歌がうまくても、今のきみの座れる場所はない、というわけだ。
ケイタは考えを変えた。
月並みな栄光はひとまずアキラメよう。CDデビューを果たして、人気者になって、とそれしきの野心が何だというのだ。自分というにんげんは歌が好きだ。いつも歌を歌ってさえいれば、幸福なのだ。その初心に帰ろう。
そんなケイタに、ある日、幸運が舞い込んだ。
紹介してくれる人があって、大人の酒場の専属歌手として雇われることになったのだ。
ケイタは毎夜、一生懸命ココロを込めて歌を歌った。
歌がうまく、見た目もまずまずとわるくないケイタは、女性達の目を惹いた。
黙っていても、酒場のホステスさん達、お客さんと親切心を示してくれる。
それは有り難いことだったが、肝心のケイタは女性が苦手だった。
アクティブな女性の一人からデートに誘われ、断り切れず応じると、彼女の運転するクルマは、一心不乱という走りぐあいで、ホテル街に直行する。マイった。女性がシャワーを浴びている間に、ゴメンナサイと退散した。
同じような災難が、二度三度とケイタを見舞った。
そうしていると、また一つの幸運が訪れた。いや、幸運と言ってよいのか。
勤め先の酒場が、隣接の食べ物屋で起こった火事の巻き添えを食い、全焼してしまい、営業停止となったのだった。
歌を歌えなくなったのは何より哀しかったが、女性が苦手なケイタにとって、女性たちのアクティブなアプローチから解放されるのは何よりだった。
それからのケイタは、ひとまず歌とは縁のないアルバイトに精を出し、生活の糧を得た。
朝から晩までのスーパーマーケットの勤務を始めて、フタ月目、また幸運がやって来た。
学生時代の先輩が、うちで働かないかと声を掛けてくれたのだ。
先輩は、歌を歌って世に出たいというケイタの願いを以前から、知っていた。
高校の頃は同じコーラス部、ケイタの歌の上手さをその頃から買ってくれてもいた。
先輩は、その父親がタクシー会社を経営しているとのこと。
「ウチに来いよ。歌って稼げる仕事がある」
同じコーラス部であった同級生達とは結構連絡を取り合っていたから、その1人からなど、先輩はケイタの現況について知らされていたらしい。
ウチに来い? いや、先輩の父親が、タクシー会社の経営者であることは知っているが、それにしても、歌って、稼げるって何?
半信半疑のケイタに、先輩は、昨今のタクシー業界における、生き残りの競争に勝ち抜く厳しさについて語った。
「――というわけでだな。何とか、頭一つでもライバル会社に差を付けるためには、ユニークな企画が必要だとオレは思うわけだ」
いずれ会社を継ぐことになるのであろう先輩は真摯なまなざしで、後輩・ケイタを見詰めた。
「タクシーに乗った途端に、歌だ。そう、生の歌が聞けるタクシー。イイ感じだと思わないかい」
はぁと頷くばかりのケイタに、
「な、判っただろう? つきましては、だな。その〝歌うタクシー・ドライバー〟ってものに、お前を起用したいんだ。歌って稼げる。その通りだろう?」先輩は力強い言葉をくれた。
ありがとうございます、とケイタはすなおに頭を下げるだけ下げたのだった。
かくて、〝歌うドライバー〟としてのケイタの毎日が始まった。
お客さんが乗って来るたび、1曲、お歌いしますが、いかがでしょうか、とケイタは声を掛ける。
「リクエストがありましたら、どうぞ」
お客さんが御所望する歌を、次から次、ケイタは歌った。目的地に着くと、お客さんは、またあなたの車に乗りたいねと言って、名残り惜しそうな顔をした。
元から、おしゃべりでも何でもないにんげんであったのだけれども、歌を歌って稼ぐ、そのためなら、何でもやる、やれる、やらなくてどうする、といった思いに、ケイタは日に日に満たされていた。
歌なんぞ聞きたくない、ただクルマに乗っていたいと望むお客さんには、歌は歌わず、ふふふんとハミング程度の口ずさみをしてみる。すると、お客さんは、イイ声だね、何だかきみの歌う歌を聞いてみたくなったと言ってくれる。ケイタはますます、満たされて行った。
〝歌うタクシー・ドライバー〟となって半年ほどが過ぎた頃、一つの出会いがあった。
深夜に近い時間だった。
夜食のコンビニ弁当を車内で済ませ、缶コーヒーなど眠気覚ましに飲み切ったところで、
乗ってもいいですかと一人の男性が、クルマのドアを叩いた。
「奇遇ですね。いえ、待っていたのです、あなたとの出会いを」
〝歌うドライバー〟として、ケイタは日に日に評判になり、タウン誌や地元のテレビでも紹介され、人気者となっていたふしがあった。
その男性も、ヒト月ほど前の情報番組で、ケイタのことを知り、以来、「めぐり会いを待っていた」とのこと。
電話などで、会社に連絡をくだされば、すぐにも駆けつけましたのに、とケイタが恐縮してみせると、
「いえいえ、そんなことをしなくても、私はあなたときっといつか出会える。そう信じていました。その思いは空振りしなかったようですね」と、さっそく男性はクルマに乗り込んで来る。
クルマを運転しながら、1曲2曲と、ケイタは歌った。そのたび拍手が来た。3曲4曲5曲、歌えば歌うほど拍手の音は大きくなる。
8曲目を歌い終わる頃、目的地に付いた。
立派な門構えの家、男性の自宅なのだろう。
すると、降り際、ちょっとウチに上がって行ってください、と男性は言うのである。
「お邪魔する、ということですか」
「はい。そうして頂きたい」
ためらいなく、男性は頼んでくる。
これまで歌を聞いてくれたあと、握手など求めて来る客は何人もいたが、家にまで上がってくれとお願いされたのは初めてだった。
「ウチには、老いたにんげんが2人、おります。私の両親です」
「はー」
「二人とも、歌が何より、好きなのです。若い頃は、二人でユニットを組み、プロの歌手をめざしていたほどです」
「それはそれは」
「しかし、二人ともすっかり老いてしまいました。今では、二人揃って、大好きな歌を歌う気力もないようです。でも、歌好きなところは変わりません。歌の上手な人の歌を聞きたい、といつも願っているのです。そ望みをかなえてくれる人は、あなた以外にいない。どうか、どうか、お願いできないものでしょうか」
願われるまま、気が付けば、ケイタは、男性宅の客人となっていた。
男性の両親が、寝るベッドの傍らで、ケイタは歌った。
1曲2曲3曲、両親は、嬉しそうに、こくんこくんと頷きつつ、一心に歌を聞く。ベッドに寝たままの格好で、健気な拍手も忘れず、くれる。
それでも、5曲6曲7曲と歌い続け、さすがに10曲を超える頃には、ヒト休みしたくなった。いや、それをしおに、お邪魔しましたとそろそろ辞去の意志を告げようとすると、両親は揃って、泣いた。
「居てください、もっと居てください。歌を歌ってください」
「と、言われましても。仕事がありますので――」
ケイタの言葉を遮って、「お願いできませんでしょうか」――男性も泣きそうになって、両親共々の勢いで、頼む、頼み込むのだった。
〝歌うタクシードライバー〟から、〝歌う居候〟へ――
その日を境に、ケイタの身の上はそのようなものとなった。
万事、私がいいように取り謀らせてもらいます、と男性は頼もしく胸を叩き、ケイタの先輩に電話などして話を付けた。ケイタさんの1日のタクシーの稼ぎ分、そのレギュラー金額の2倍のものをそちらへとお納めしますので、なにとぞご配慮を、というぐあいだ。
何処からそんなお金が調達できるのだろうとケイタは訝しんだが、昔からの土地持ちでね、今でもけっこうな貸借料、そう、上がりのオカネがあるのですよ、と男性はあっさり打ち明け、ケイタを安心させた。
ケイタは歌を歌い続けた。
寝食を忘れて、という言い方があるが、まさしくそんな感じだった。
男性の両親は、揃って、寝床の中で歌を聞いている。
眠っているように見えることもあるが、そうではない。
こくりこくりとやりながらも、彼らはしっかり聞いてくれている――歌い手として、ケイタには力強い実感があった。
ヒト月、フタ月が過ぎた。
ケイタは歌い続けた。
いつもいつも、男性の両親は寝床の中で、聞き入っている。
歌ってよ、とケイタの生まれる前の、たとえば昭和時代の演歌なども時にご所望されたが、ケイタはソツなく歌った。
「あんたは何でも歌えるなぁ、凄いなぁ」
二人揃って、褒めてくれる。
とは言え、演歌から一転、♪マイウエイをリクエストされたのには、少々マイった。
こんなご立派にも大袈裟な歌、自分は分不相応にも歌えそうもない。
ごめんなさい、と謝るケイタに、これだったら照れくさくもなかろうと、と男性は歌詞カードを引っ張り出してきた。
「あれ、これって」
「そうです。元歌というのか、もともとのオリジナルの英語の歌詞ですね。フランク・シナトラとかいう人が最初にでも歌ったのかな」
英語の歌詞であれば、照れくささは半減されるのではないかとの見込みなのだろう。
なるほどなぁと頷くケイタは、歌ってみると、全く案外すんなり歌えるのだった。
「やっぱり、あんたは何でも歌えるなぁ。凄いなぁ」
感心しきりの両親に、ケイタは、一礼して、歌い続けるのだった。
それから、また5ヵ月、6ヵ月と時は流れていく。
ケイタはまだまだと歌い続けていた。
男性の両親もまだまだと、寝床からケイタの歌を聞いている。
そのうち、「あなたをお道づれともしたいものだね」と両親は声を揃えて言うようになった。
「お道づれ?」
「そうだよ。お道づれ」
何処へと行かれるのですか、とお訊ねしそうになって、ケイタは我が不明を恥じた。
お道づれ、あの世へのお道づれ。両親は、そう願っているみたいだ。
アハハ、ととりあえず、ケイタは笑った。
両親もアハハと返した。
一瞬、和みの光景となった。
「わたしたちは、間もなく、あの世へと逝くのだろう。あの世へと逝っても、わたしたちは、ずっと歌を聞いていたい。そうだよ、あなたの歌をね」
ああ、と1度頷いたケイタは、でも、ボクって、まだまだ若いんダーとまた笑ってみせた。そうでもしないと、間が持てない。そんな気分だった。
すると、両親は悲しげな顔をしたが、コホンコホンとまた揃っての咳などしたあと、歌を歌い出した。
幼き日に愛唱した童謡だろうか。
ともあれ、急にも両親が歌い出したので、ケイタは驚いた。
今日の今日まで、歌を聞くばかりで、唱和することなどなかった老人二人が、声を揃えて、今、歌を歌っている。
その背後には、いつの間にやら、老人の息子である男性がいた。
「叶えてやってもらえないものでしょうか」
「え?」
「はい、私の両親の願いというものを」
「お道づれのことですか」
「はい、そのようなことで」
そう言われましても、と口籠るしかないケイタをよそに、両親は歌い続ける。
「まだまだ、先のことでしょう。あちらの世界へと逝かれるのは。だって、こんなに元気に歌を歌われるのですから」
ケイタの正直な気持だった。
「まあ、そのようでもありますが」
男性の静かな口ぶりに、ケイタはひとまず安心したくなった。
しかし――、
十日後、両親は揃って、逝った。
寝床で、手を握り合って、穏やかな顔で、文字通り眠るような旅立ちだった。
「お道づれは叶わなかったけれど……さいごのさいごまで、あなたの歌が聞けて、二人とも満足だったと思います」
ほんとにありがとう、と男性は何度も、ケイタに頭を下げた。
いえ、とんでもない、とケイタも頭を何度も下げた。
夢の中のできごとであったような気がする、とケイタは男性の両親に歌を歌い続けた日々を思い返した。
二人の笑顔、拍手。涙ぐむケイタに、ほんとにほんとにありがとうございました、と男性はまた頭を下げた。
そして――。
ケイタは、元のタクシー・ドライバーに戻った。
学校の先輩の会社でなく、別のタクシー会社に新規で採用された。
歌など歌わず、ただただ寡黙に安全運転をして、お客さんを目的地に運ぶ。
それでも、ふとした瞬間、歌を歌い出しそうな自分を、ケイタは感じた。
歌っておくれ、歌っておくれ。
男性の両親の笑顔が、脳内に揃って浮かぶ。
はい、と呟き、ケイタは快くアクセルを踏んだ。
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