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「それにしても、たしかに茅野たち遅いですね。この時間だから店が混んでいるのかもしれないですけど」
店内に流れる、マイルス・デイヴィスの吹く『Dear Old Stockholm』のテーマに合わせ、本に添えられた長い指が動いている。意識的に動かしているわけではないのかもしれない。本に集中しているように見えるから。タイトルは見えないけれど、書かれている文字は日本語でもなければ、英語でもない。
「冬吾、他人事のように言っているけどな、お前もバンドメンバーだろ。早く呼び出せよ」
ようやく顔を上げた早川さんは、本に栞を挟むと、気怠そうな表情をしたまま頬杖をついてマスターを見た。
「呼び出したいのはやまやまなんですけど、今日は携帯を家に置いて来たみたいで」
悪びれもせず、しれっとした顔で早川さんは答えた。
「俺は冬吾が携帯電話を持っているところを見たことが一度もないけどな」
マスターは呆れた表情をしている。
「大概は家に置いてありますから。それによく考えたら、茅野(かやの)の電話番号を僕は知らない」
「一体何のための携帯電話なんだ」
「電話するためですよ。掛けることも、たまにはありますから」
早川さんは炭酸入りのミネラルウォーターをごくりと飲むと、片手で蓋を締め、本を黒いジャケットのポケットにつっこみながら席を立った。
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