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02_願わくば、それはおれだけが知っている話でありますように
放課後、忘れ物を取りに教室へ戻ったときだ。
渚はひとり席に座っていた。ほかには誰もいない。
戸惑ったものの、おれの席はその後ろだ。おれはそっと席へ近づく。
渚がノートへペンを走らせているのが見えた。勉強をしているみたいだ。今日もゴキゲンにレゲエの鼻歌だ。
おれに気づいたのだろう。渚がハッと顔をあげる。そしておれを見て照れたような顔をする。そこでおれはつい声を出した。
「すごいね。楽勝っぽそうっていうか、いつも楽しそうだね」
目をしばたたいて彼女は「あ」と口元に手をやる。
「わたし、歌っていた?」
「うん。余裕な感じだった」
「違う違う。むしろ逆」
「逆? とは?」
「これ、今日しめきりの数学の提出物なの。すっかり忘れていてね。マテマテに頼み込んで、必死でやっているのよ」
「とても必死には見えないけど。鼻歌まじりだったし」
彼女はバツの悪そうな顔をする。
「実はわたし、必死な局面では歌うことにしているの」
首をかしげる。どういうこと?
「イルカも歌うんだよ。それに習って」
ますます首をかしげる。どういうこと??
***
彼女いわく──
イルカは海の中で実によく歌っているという。
光の届かない海の中で、群れとして暮らしたり子どもがはぐれないように歌っているのだ。
自分はここにいますよ、それを示すために超音波を出している。跳ね返ってくる音によって相手やものを識別する、エコロケーションをしているんだという。
イルカには声帯がないからこれを『歌』っていうのは語弊があるだろうけれど、『周波数』って呼ぶのは味気ないから、わたしは『歌』って呼んでいるの。
そう渚はほほ笑んだ。
***
つまり──
「滝野さんは、イルカが大好きなんだね」
「へ? あー……バレた」
「そりゃわかるでしょ」
えへへ、と渚は照れ笑いをする。だから! ……くそう、かわいい。
「大学でね、そういう勉強ができたらなあって思っているんだ」
「イルカとか、海洋生物の研究?」
「うん。イルカってね、数百ヘルツから150キロヘルツまで幅広い周波数を聴きとることができるの。ヒトは20ヘルツから20キロヘルツだから、ものすごく広い周波数を聴きとれるのよ。海の中って空気中の4.5倍の速さで音が遠くまで届くから、生きものの音以外にも波や雨の音もよく聞こえるらしいんだけど。それから──」
教室には二人きり。窓からは乾いた心地いい風と、それに乗ったポプラの綿毛が吹き込んでくる。木漏れ日が揺らめいて、まるで二人で海の中にいるみたい。ふわふわと舞う綿毛が海の中の水泡みたいだ。
イルカについて考えたことなんて、水族館へいったときくらいしかなかったけれど、こうして聞いていると興味がわく。
それに渚の楽しそうな顔。ほんとうにイルカが好きなんだってことが伝わってくる。おれまでワクワクしてくる。
……しあわせって、こういうことかも。
「それにイルカも環境問題の影響を受けているのよ。氷がなくなって狩りができなくなるシロクマに比べたらマイナーな影響なんだけど、皮膚疾患が深刻なんだって。なんとかしなくちゃって、焦る」
そう続いた渚の言葉に、「……うん」とうなずいた。そうだね。ただ可愛いから好きっていうことじゃないよね。窓の外へ顔を向ける。ここ札幌だって、こんなにいい天気なのもあと少し。そのあと本州みたいに暑い夏になる。気候変動は続いている。なんとかするのは──大人たちじゃなくて、おれたちだ。
「──で、いつだったかな。すっごく緊張したときに、イルカのことを思い出して歌ってみたの。そうしたら目の前のことだけに集中できてうまくいって。それ以来、『頭が真っ白になりそう』なときには歌うことにしているの」
なるほどー、とおれはうなずく。そんな理由があったとは。
がんばるための鼻歌。そういうことか。
それってめっちゃいいのでは?
「でもなんでレゲエ?」
「親が好きで。子どものころから聞かされていたからかな。自然と口に出ちゃう」
ファンキーなご両親だった。
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