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NOW・ON・AIR
「緊急事態!」
そうやって書き出したグループLINEのメッセージを途中まで書いて、急に冷静になって最初の文章だけ消去した。
大学の頃から付き合いのあるそのグループLINEは、もともとは就活のことを相談し合うために開設された。ゼミが同じだったり、バイトが同じだったりして気の合う友達同士で年も近いのでいろいろな話をした。就活でのエントリーシートの書き方から始まって、就職後は仕事の人間関係のこと、それから社会人生活に慣れてきた頃にはマッチングアプリで出会ったクセの強い男の人のこと。なんでも書いてみんなですぐレスを付け、誰かが緊急事態と書いたらとにかく集まれる人が駆けつけてカラオケで朝まで大騒ぎするのが定番だった。
そのうち誰かが婚活を始めると今度は婚活の話題で盛り上がった。それから既婚者がどんどん増えていき、書き込みが減った。今でも誰かが緊急事態だったら駆けつける。でも昔のように一晩じゅうなんてことはなく、カフェで1時間も話すと「そろそろ旦那が帰ってくるから」と誰かが席を立って、そのままなんとなく解散になる。
今送ったLINEもいくつか既読になったけど、返事はなかなかつかない。緊急事態を発令する頻度はずいぶん減った。あの頃と比べてみんな毎日が緊急事態の連続なのだ。そんなわけで私は一人電車に乗って家に帰る。
みんながやってるからという理由でマッチングアプリを始めて何人かの男の人に会った。はじめまして、お仕事忙しいですか? 休日は何をしているんですか? いつもその質問の繰り返しだ。何人目かに会った田島さんは条件的にはすごくいいのだけどこのまま進展させていいのかわからない。
仕事がとても忙しいらしくて、ぱっと見てわかるくらい服にお金をかけているのでマッチングアプリでの自己申告通りの高収入なんだと思う。エネルギッシュな人で趣味が多い。フットサル、筋トレ、駅前の英会話教室に通っていて、年収をあげるために海外MBAにも最近興味があるらしい。「いいじゃん、好物件!」グループLINEではそう言われた。
悪い人じゃないと思う。顔も嫌いじゃないし、年齢にしては締まっていてスーツもよく似合う。でも話していると毎日自分の好きなことをして充実している田島さんと、好きなことが何も無い自分を比べてしまう。
最寄り駅についたとき、いくつか返事があった。「わかる。生活に追われて趣味や自分のやりたいことなんてできないよね」「いいじゃん、向上心があって。好きなことがある人を応援していく人生もアリじゃない?」共感寄りの返信だけど、気持ちは晴れない。通話して話を聞こうか? と言ってくれた子もいたけど、なんだか悪くて丁重に辞退した。
その足で家に帰る気にはならなくて、気がついたらカラオケの受付にいた。髪の毛を明るい色に染めて鼻にピアスをつけた若い女の子の店員に「お時間どうされますか?」と聞かれ、少し迷ってから「フリータイムで」と答えた。ドリンクバーのコップにコーラを入れてドアを閉めるとアイドルグループのインタビューがカラオケマシンから流れてくる。
小さい頃は歌を歌うのが好きだった。テレビに出てくるアイドルの真似をしていたら親も祖父母も喜んでくれた。小学校でも中学校でも歌がうまいキャラだった。みんなからリクエストを受けてそのとき流行っていた歌をたくさん歌った。乃木坂や椎名林檎、ビリー・アイリッシュにケイティ・ペリー。高校の時大手芸能事務所のスカウトキャラバンが地元に来ていて、「応募してみたら?」
と何人かに言われた。少し心が揺らいだけど、結局怖くて応募できなかった。あのとき一歩踏み出していたらなにか変わったのかな?
だめだ、だめだ。気持ちが後ろ向きになってる。
私は気を取り直してコントローラで思いつく限りの曲を検索した。今日はおもいっきり歌ってやるんだ。フリータイムの時間をまるまる使って深夜12時まで。1曲目のイントロが流れはじめてから、ふと思い立ってリモコンで止めた。後輩に教えてもらったアプリをスマホから立ち上げる。Musicクラウド。世界中のインディーズバンドの人たちがここで音楽を上げていて無料で聞くことができる。おすすめのバンドを教えてもらってよく聞いていたのだけど、このアプリでは音楽を聞くだけじゃなく、ボタン一つで配信することもできるらしい。一人で歌っていてもどこか味気ないので、そこでライブ配信することにした。
携帯でカラオケのWi-Fiにつなげると、私はちょっとドキドキしながらライブスタートのボタンを押した。携帯が配信中をしめす、「NOW・ON・AIR」というメッセージを表示した。緊張しながら一曲目を歌う。ちらちらとリスナーがいないかスマホを見るけど、リスナーはゼロのまま。そんなにうまくはいかないよね、と思ってからは緊張も解けて調子が出てきた。そのまま1時間くらい歌い続けていると、一人リスナーが初めてついて胸がドキドキした。世界のどこかで私の歌を聞いてる人がいるのだ。2曲くらい歌ったあとでスマホを見てみるとそのリスナーはいなくなっていて、残念だな、という気持ちと聞いてくれてありがとうという気持ちがごちゃまぜになった。こんなに高揚感はいつぶりだろう。
リスナーが一人ついてはゼロになり、その繰り返しが楽しくて私はほとんど休憩もしないで歌い続けた。まるでアンデルセンの赤い靴を履いた女の子のように。くたくたになって家路につく時、スマホのアプリを立ち上げると、1つだけライブ配信に「いいね」がついていた。どんなユーザーがこのボタンを押したのかわからない。でも、どこかの誰かが私の歌をいいと思ってくれたんだ。その事実が私の胸を熱くした。
自分でもどうしてこんなことをしているのかわからなかった。気がついたら田島さんとの3回目のデートを断って駅前の大きな量販店でUSB接続のマイクを買っていた。インターネットで接続方法を見ながらなんとかうちのボロノートPCでも録音できていることを確認する。下手な商品を買って損したくなかったからレビューサイトはたくさん見た。そのおかげで録音できた音源の音質はかなりいいと思う。いい年して恋人もいないのにこんなことやってていんだろうか。あたしのなかのおせっかいおばさんが首をもたげる。
うるさい。うるさい。
マイクのスイッチをつけるとランプが点灯する。録音中を示すRECのサインがモニタに映し出され、心拍数があがるのがわかる。世界中の人が聞いてるとも言えるし、誰も聞いてないとも言える。イントロが流れ始める。ギターフレーズが終わったら歌い出しだ。大好きな曲、大好きな歌。うまく歌えるかはわからないけれど、歌いだしで精一杯の声を出すため、あたしは大きく生きを吸い込んだ。
了
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