優しくて寂しいキス

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真っ暗闇の海辺に月明かりが照らされている。 呼び出された場所に着いたけど、あいつの姿が見当たらない。 厳しい訓練と明日のない未来を抱えたこの身体には休息の文字がなく、いつも疲れ果てた状態だ。 目を凝らして探すと、岩の影にひっそりと座り込んだあいつの姿が目に止まる 重い身体を引きずって側まで行くと、彼が気付いてこちらを見た。 「訓練大変だった?」 隣に腰を落として薄明かりの海辺を眺める。 「いつも通りだよ、お前は?上官に呼び出されていたんだろ?なんだった?」 目を合わせずに問いかけた。 梅雨の時期だけあって、汗をかいたシャツが身体に張り付いて少し気持ち悪い。 「俺さ、明日搭乗することになった」 膝の上に置いた手がズボンを握りしめる。 「…おめでとう」 喜ばしいこと…のはずなのに心の中は痛みが押し寄せる。 「あーあ、もう少しお前と一緒にいたかったな、笑ったり怒ったり、泣いたりしたかった」 「お国のためだ、それは来世ですればいい」 「…だな、たださ、一つだけいいかな?」 月明かりの光が海に跳ね返って、彼の顔が薄らと浮き上がった。 静寂の中に波音が、響き渡る。 「なに?」 「こっち向いてくれない?」 彼の大きな身体がこちらを向き、月明かりを背に隠れて俺からは彼の整った精悍な顔が見えない。 「嫌だ」 「ほらっ」 そう言って彼は俺の頬を両手で持って自分に向かせる。 「君が好き、小さな身体で頑張っているところも、周りを気遣える優しい性格も、その可愛い大きな瞳も」 だから俺に思い出を頂戴、そう言って優しく寂しいキスをした。 波音と2人の息遣いだけが、そこに響いて、俺は溢れそうになる涙を必死で堪えた。 抗えない時代の波に俺たち2人は取り残されたまま、月明かりに見守られ、静まり返った海辺で世が明けるまで抱き合ってた。 次の日、彼は真っ青な空に向けて飛び立っていった。 俺も好きだったよ、来世は2人で幸せに過ごせることを祈って、空に浮かぶ零戦を眺めた。
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