シイラーン

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 あれは10歳の夏の真っ盛り、特に暑い午後だった。同じクラスの男の子ばかり、僕を入れて5人、川の浅瀬で遊んでいた。立てば腿の深さしかなく、流れもとうとうと緩やかで、大人達も川での遊泳を禁止していなかった。  ただし、河口近くには深みがある。海藻が底に蔓延っていて、もし足が絡まると大人でも水面まで浮かび上がれなくなる。だから、岸辺にマリールーが見えたら、川から上がるようにと教えられていた。  ヘンリクが流されたのは、一瞬の油断だった。彼は「小魚がいた!」と叫ぶと、川の中央まで歩いて行き、そこで足を滑らせて転んだ。派手な水しぶきを上げて、後頭部から仰向けに倒れた。水位の低さが仇になった。川底の石に頭を打ったのか、ぶくりと沈んで――彼は視界から消えた。  僕達は、大声で名前を呼びながら探した。僕とレシェクが川の中央まで駆けて、河口に向かって泳いだ。残りの2人は、大人を呼びに走った。 「マレク! これ以上は、危険だ!」 「でも、もう少し……!」  顔を上げると、川辺にマリールーの蕾が点々と見える。立ち上がると、水は胸まであって、急いで川岸に戻った。僕達は、ヘンリクを諦めた。  大人達の捜索は、川から河口、その先の海まで広げられ、連日続いたがヘンリクは見つからなかった。  マリールーの蕾が開き、大輪の花が咲き、花弁が散って、蔓が枯れ……秋になっても探したが、ヘンリクのシャツの切れ端すら上がらなかった。川の浅瀬に薄氷が張った朝、捜索は打ち切られた。河口を見詰めて泣き崩れるヘンリクのお母さんの肩に触れ、村の年寄り達は口々に『きっとシイラーンが預かってくれているに違いない』と言っていた。  僕の村には伝説がある。  その昔、海の向こうから戦争がやって来た。村の半分が戦火に包まれる中、1人の若者が水の精霊(シイラーン)に自らの命を捧げた。すると海が荒れて敵の船は大破した。船に残っていた兵隊達は、あっという間に海の底に引きずり込まれた。陸でも、強い風に煽られた炎が向きを変え、村にいた兵隊達を次々に飲み込んだ。そうして敵の兵隊はひとりも祖国へ帰ることはなかった。村人達は水の精霊(シイラーン)に深く感謝して、声を揃えて歌った。その歌声を聞いた水の精霊(シイラーン)は、冷たい水底の向こうにあるという「狭間の国」から若者の魂を解放し、「安らぎの国」へと送り届けたという――。  この伝説は『村を救った若者と水の精霊シイラーン』という絵本になって、村の外まで広まった。僕を含め、この国の子ども達は大抵読んでいる。  大人達の捜索が打ち切られたあと、僕は学校からの帰りに川沿いの道を河口近くまで歩くようになった。すっかり葉を落として黒い鉄条網の塊みたいになったハイヘザーの横で、川に向かって大声で歌った。絵本に描かれていた“村人の歌”がどんな曲なのか知らないので、童謡から流行歌まで知っている曲を2、3曲歌って、帰宅した。もしこの川にシイラーンがいるのなら、ヘンリクの魂を解放して欲しい。そして天にあるという「安らぎの国」に送り届けてあげて欲しい。そんな祈りにも似た願いを込めて、僕は毎日歌った。  鉛色の雲が重く垂れ込めた空から、小雪がヒラヒラと舞い落ちる。冬の夕方は日暮れが早い。薄暗い川沿いの道を、足下に気をつけながら進む。この先、雪が積もったら、河口まで歩くのは危険だ。春まで休まなければならないだろう。  遠い海の上から流れ込む冷たい風が、ハイヘザーの枯れ枝の隙間を吹き抜ける。川も海も、空の鉛を流し込んだようにのっぺりと重く揺れている。今年ここを訪れるのは、今日が最後かもしれない。だったら――だから。僕はいつも以上に想いを込めて、音楽の授業で習いたての外国の曲を歌う。異国の歌詞、異国のメロディ。こんなことすら教わらない内に、ヘンリクは異国よりも遠くへ行ってしまったのだ。 「シイラーン、ヘンリクを、解放してあげてー! ヘンリクの魂を、『安らぎの国』に、送ってあげてー!」   僕の声は、風に千切れ、余韻も残さずに消えていった。波音はずっと低いまま、ゆったりと繰り返されている。鼻先に落ちる雪片の冷たさを感じながらしばらく佇む。  この景色を瞳に焼き付けておこう。冬の間、ここには来られなくても、寝る前にこの景色を思い出しながらヘンリクのために祈るんだ。僕は深呼吸すると踵を返した。
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