シイラーン

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 ――おいで 「……えっ?」  細い鳥の遠鳴きに似た声が、言葉に聞こえた。  おいで……ここに、おいで……  足が止まる。風が偶然奏でた音じゃない。やっぱり言葉になっている。しかも抑揚のついた……歌声だ。  おいで ここへおいで  彼方と此方 此方と彼方  の 扉を開けよう  歌は、耳から聞こえてきたはずなのに、肌からジワジワと染みてきて、身体いっぱいに満ちてゆく。目の前を雪の結晶が落ちていき、風が前髪を揺らすのに、まるで寒さを感じない。夢の中を漂うようにフワフワと心地良い。  おいで ここへおいで  彼方と此方 此方と彼方  で 永遠(とわ)を生きよう  川の水面の上に、白い湯気がもわっと浮かぶと、それはみるみる形を取る。現れたのは、透き通るような白い肌、腰まで伸びた銀の長 髪(ストレートヘア)。やや吊り上がったアーモンド型の両目は、人間よりも大きくて、青く澄んで美しい。下半身が髪と同じ銀色の鱗に被われており、半透明のヒレが付いた魚の姿で、美術の資料集に載っていた人魚に似ている。 「シィ……ラーン?」  強張った舌を懸命に動かして、やっとそれだけ発した。 「ずっと歌っていたのは、おまえだね?」  青い瞳に見詰められると、頭の中がスゥ……ッと空っぽになる。僕は自由に動かない顎を引き、やっと頷いた。 「良い声をしている。おいで……」  唇の形だけで微笑むと、シイラーンは僕に向けて両手を広げた。見えない糸で手繰られるようにフラフラと足が動き出す。 「おまえの友達は、既に私の国のもの。次の春には青い背びれの黄色い魚になって、この海から長い旅に出る。あの子が望んだことだ。これは変えられない」  シイラーンは流れるように右手を伸ばすと、僕の頰を何度か撫でた。ヒヤリと冷たさを感じる一方で、胸の奥ではほんのりと熱を持つ。吸い寄せられて離せない瞳。このまま魂を抜かれたとしても、少しも怖いとは思わなかった。 「人間(ヒト)の子――おまえは、私を恐れていない」  更に顔が近付いた。ツルリと滑らかな白い肌には、真珠のような光沢がある。精霊とは、その存在自体が宝石のように煌めきを宿すものらしい。 「き……れ、い」  呟いた言葉に、シイラーンの瞳が輝いた。 「良いことを思いついた。おまえは、人間(ヒト)の姿で世界中を旅するがいい。私の行けない陸の上を隅々まで巡り、沢山の歌を覚えてくるのだ。そして、人間(ヒト)の命が尽きる頃、この地に戻ってくるのだよ」  シイラーンの言葉は、僕の頭に直接響いた。それは艶やかに花弁を開く薔薇のように、甘い香りでうっとりと心を酔わし、鋭い棘で運命を縛りつけた。 「人間(ヒト)の子、おまえの名前は」 「ま……マレク・ペデルセン……」 「そうか。マレク、必ずや戻ってくるのだぞ」  唇にヒヤリとした感触があった。胸の奥の熱が弾けて、全身が小さく震えた。   パシャンと水音がした。 「……寒い」  僕は河原に下りていて、湿った砂利の上に座り込んでいた。靴もズボンも濡れていた。粉雪はやや大きな濡れ雪に変わっていて、相変わらず風が海の方から吹き込んでいる。小刻みに震える身体を無理矢理起こして立ち上がり、泥だらけになりながら土手を上ると、真っ直ぐに家まで走った。厚い雲の向こうで太陽は既に沈んでおり、暗い道をひたすら駆けた。  僕の酷い有様を見ると、母は顔色を失い、卒倒しかけた。なにがあったのかと問い詰められ、「シイラーンに遭った」と言おうとしたが、どうしても口はその言葉を発せなかった。代わりに僕は、「足を滑らせて土手を転げ落ち、川に嵌まった」ということにした。  熱い風呂に浸かってベッドに入ったが、翌日から発熱して1週間学校を休んだ。ようやく登校出来るようになった頃には、庭も家の周りも……村中が、すっかり雪に覆われていた。
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