シイラーン

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 博物館の展示を2/3程鑑賞すると、ブリュル君は少しだけ退屈そうな素振りをみせた。仕事とはいえ、こんなジイサンと骨董品みたいな歴史的遺物や、絶滅した生き物の骨格標本を見て回るなんて、元より興味がない者にしたら苦痛以外の何ものでもないだろう。 「ブリュル君、少し休んできたらどうかね」 「えっ。あ、あの……いや」 「構わないよ。僕には、君が借りてくれたコイツがあるから大丈夫」 「でも」 「じゃあ、すまないが、昼食にオススメのレストランを手配してくれるかね?」  彼は生き返ったようにパアッと顔を輝かせて、足早に展示室の外に出ていった。素直な後ろ姿を眺めながら、思わず微笑んでしまう。 「それにしても……」  この国の王族の中には、相当な好事家がいたらしく、世界各地で捕獲・採集した珍しい動植物が所狭しと展示されている。中には、ユニコーンの骨格標本や、妖精のホルマリン漬けなど、眉唾なものも混じっている。そして、そんな伝説上の生き物達の展示の最後に、予想外の剥製が飾られていた。 「シイラーン……まさか」  左耳に流れる学芸員の解説では、今から5年前に隣国の田舎の村で捕獲された「人魚」に似た生物だという。言葉巧みに人の心を惑わし、水中に引きずり込んで魂を奪う――そんな言い伝えがあると、抑揚のない解説が淡々と語った。 「あなたが、どうして……」  真珠色で滑らかだった肌は、乾いて麻布のようにごわついてひび割れている。長く艶やかな銀髪も疎らに抜け落ち、あるいは短く切れて、質の悪いモップのようだ。下腹部から尾ビレの付け根までを覆うメタリックシルバーの鎧の如き鱗も、所々剥がれて傷つき痛々しい。あの半透明の美しい尾ビレに至っては、塩化ビニールの切れ端みたいに品がない。青い瞳は閉じられて、上下の瞼が縫い付けられている。眼窩が窪んだ様子から、大粒のサファイアのようだった眼球は、この剥製からは失われているものと思われた。唇だけが、なにかもの言いたげに半開きで……今にも僕の名前を呼んでくれそうな気がして、この場から動けない。 「マレクです、シイラーン……。僕、マレク・ペデルセンです。声楽家になって、世界中の歌を沢山覚えたんです。なのに……こんなところで、あなたが晒されていたなんて……」  約束したじゃないですか――その言葉は声にならなかった。シイラーンは死してなお、僕に与えた制約を全て消したわけではないようだ。それでも、僕は絶望した。  長らく拒んでいた結婚を決めたのは、この翌年のことだ。ピアニストの妻との間に1男2女をもうけたが、子ども達が成人する前に妻から離婚を言い渡された。なにもかもが上手くいく人生なんてない。家族を失って、僕にはやはり歌だけが残った。
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