シイラーン

6/6

23人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
 夕日が海の向こうに消える前に、カトリーナ達は隣町のホテルに行った。この寂れた村には宿泊施設がないからだ。  僕に間もなく迎えが来ることは、家族の誰もが覚悟している。それは、今晩かもしれないし、明日の朝かもしれない。  テラスの向こうの空は少しずつ青味を増し、世界がインクのような闇に沈んでいく。 「……約束を……シイラーン……」  与えられた歌声は、年をとっても衰え知らずで、それもまた「奇跡」だともてはやされた。けれども僕の声楽家人生に引導を渡したのは、声帯ではなく心臓だった。オペラのアリアは、強靭な心肺能力なしには歌えない。声は枯れずとも、肺が空気を溜めてくれなければ声量は出ない。歌えなくなった僕は、家族が願う限りの延命治療に甘んじてきた。長かった。本当はもっと早く、この村に……ここに、戻ってきたかった。  庭から虫の合唱が聞こえる。最後の最後まで僕の耳は、音楽を拾ってしまうらしい。  ああ……ヘンリク。君は、どれほど広い世界を旅したのだろう。世界中の海の波音は、どんなに素敵だったろう。  僕は……陸を旅してきたよ。沢山の歌を覚えたんだ。君とシイラーンに聞かせるためにね。あの約束があったから、僕は……――。  虫の音が、止んだ。  庭の雑草がユサユサと、風もないのに揺れている。  ……やぁ、遅かったね。僕は、あなたを待たせてしまっただろうか。  瞼を開けているのか、閉じているのか、それとももう見えないのか分からない。ただ、暗闇の中から確かな気配を感じる。 「これからは、沢山、歌ってもらうよ」  唇にヒヤリとした感触。胸の奥がドキドキと熱く弾けて――。  ブルリと大きく痙攣し、若草色の膝掛けが床に落ちる。一陣の風がザァ……ッと吹き抜け、庭の雑草を大きく揺らした。  それからしばらくののち、夏が終わる気配に急かされた虫達が、再び声高らかに命の讃歌を奏で始めた。その生きた証を刻み込まんとするかのように――。 【了】
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

23人が本棚に入れています
本棚に追加