シイラーン

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「父さん……本当に、考えは変わらないの?」  娘のカトレーナは僕の側にしゃがみ込むと、ずり落ちかけていた若草色の膝掛けを僕の腿の上まで引き上げ、そのままこちらを見上げる。アクアマリンに似た淡いブルーの瞳が悲し気だ。ああ、ごめんよ。でも、僕の気持ちは変わらない。 「うん。最後の……わがままだ。許してくれ」 「そんな」  少しだけ動く左手を肘掛けから持ち上げ、腿の上で止まっている彼女の手の甲に重ねる。  庭に張り出した三方がガラス張りのリビングテラスに、飴色のロッキングチェア、ここは在りし日の母がお気に入りだった場所だ。  夏の終わりを感じさせる午後の柔らかな日差しを浴びて、僕の心は穏やかだ。ずっと機械の助けを借りて繋ぎ止めていた命も、間もなく終わりの時を迎える。現代の医学では及ばない段階に達して、ようやく様々な計器の管から解放された。ゆったりとした部屋着の袖から覗く両腕には、紫色の闘いの証が点々と刻まれている。 「泣かないで、カトレーナ……僕は、幸せだよ」  懐かしい故郷。懐かしい生家。懐かしい想い出に溢れたこの場所で、こんなに安らかな時間を過ごせるなんて。  テラスの外には、育ちすぎたハーブが雑草に混じって生い茂っている。庭を手入れしていた母も15年前に旅立ち、それから……長男が朽ち落ちない程度に建物だけ管理していた。土地も建物も資産価値は二束三文だが、家族の歴史を残したいという僕のわがままを聞いてくれていた。ああ……わがままか。そうだな、僕は随分と自分勝手な願いを子ども達に押しつけてきたのだな。今更ながら申し訳なく思う。 「明日の昼には、姉さんが来るから。私も、朝には」 「いいんだよ……」  1人で過ごしたいと言ったのは僕なのだ。カトレーナのハニーブラウンの髪を撫でてやりたいが、そこまで腕は上がらない。身体が自由に動く内に、もっと沢山抱きしめてやれば良かった。 「じぃじぃー、ママァ!」  玄関の方で弾けたような声がして、パタパタと足音が近づいてくる。 「ミア、騒がないのよ」 「だって、あたし、今ね」  カトレーナの末娘、5歳になったばかりのミアが、母親の肩にギュッと抱き付きながらキラキラした瞳を僕達に向ける。 「妖精を見たって言うんだよ。なぁ?」  続いて娘婿が現れた。2人は、近所の散歩に出ていたはずだが。 「うんっ、いたのっ! 背中に羽のある、妖精さんっ!」 「凄いだろ、俺も見たかったなぁ」 「もう……あなたまで」  大きな手でミアを抱き上げて、トマシュは苦笑いする。おおらかで芯の太い性格の娘婿を、僕は案外気に入っている。心配性のカトレーナにはちょうど良い伴侶だ。 「本当にいたのぉ! 黄色いお花の上から飛んでいっちゃったのよ!」 「黄色……マリールー、かね」  子どもの足でも川沿いを西へ15分程歩けば、河口がある。その周辺には1mまで育つハイヘザーの茂みが広がっており、そこに蔓性の多年草、マリールーが絡みつく。この植物は、夏から秋にかけて掌サイズのタンポポのような黄色い花を付ける。この地方特有の夏の終わりの風景だ。 「ええ、それですよ。河口近くに群生しているところがあって」 「そうか……ミアは、見える子、なのか……」 「父さん?」 「この村は、ずっと昔、不思議な生き物に守られたんだよ……」 「『シイラーン』でしょ。あれは絵本の中のお話だわ」 「いいや……」  違うんだ。そう言おうとして、喉が詰まる。胸の奥が重くなった。 「父さん?」 「少し……喋り、過ぎた……らしい」 「カトレーナ、お義父さんを休ませてあげよう。お義父さん、俺達は2階にいます」 「うん」  娘一家は、夕方、日が沈むまで、この家にいると言っていた。本当は泊まっていきたいと申し出てくれたが、それは僕が断った。僕は、1人で待たなくてはならないのだ。そういう約束があるから。
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