歌姫からの贈りもの

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歌姫からの贈りもの

 音楽業界に数々の記録を打ち立て、長きにわたり国民の人気を集め続ける歌姫。六十歳を過ぎた今もなお、そのパフォーマンスに一切の衰えは感じさせなかった。ただ、そんな彼女を病魔が襲った。入退院を繰り返す中で、残された命の短さを悟ったのだろう、彼女はあることを俺に託した。没後もその歌声を人々に届けたい――歌に人生を捧げた歌姫らしい願いだった。  彼女の強い意志を汲んだ俺は、その歌声を後世につなぐことを誓った。最も近い距離でその声に触れてきたからこそ、実現させる自信もあった。ボーカロイドと呼ばれる音声合成技術を駆使すれば、決して不可能な挑戦ではない。  それからというもの、彼女の声を収集する日々がはじまった。マイクに向かい、あらゆる音を記録していく途方もない作業。完璧に歌声を再現するためには、微細な音声素片までをも拾い集める必要があった。当然、全盛期の頃のような体力が望めない歌姫にとって、計り知れないほどに重労働だったはずだ。しかし、強靭な意志に突き動かされた彼女は、疲れを見せることすらなく、その作業を完璧にやってのけた。  そして、伝説の歌姫の声が再現されたボーカロイドは完成した。念願が叶ったことで安堵したのか、完成と時を合わせるように、彼女は人生の幕を閉じた。 「新曲の制作は順調ですか?」 「もう、随分と仕上がってきてるよ」  レコーディングエンジニアに声をかけられた俺は、得意げに再生ボタンを押す。スピーカーからは艶のある歌姫の声が流れた。 「まったく違和感がないですね」 「当然だよ。あれだけ大量の音を拾い集め、歌声を創り出してるからね。何より、天賦の才能に恵まれたこの声が後押ししてくれるんだ。やっぱり天才は違うね」  心に語りかけるような歌声、安定感のあるロングトーンの伸び、そして心地よい揺れ。まるで彼女がすぐそこで歌っているかのような臨場感だ。  目を閉じて静かに聞き入っていたエンジニアが口を開く。 「新たな名盤が生まれる予感しかないです」 「そうだな」と、俺も誇らしげ。  没後の歌姫のニューアルバム制作は、その後も順調に進行した。  彼女の声を借りれば、どんな楽曲だって名曲に化ける。名コンポーザーになった気分の俺は、心を踊らせながら新曲を生み出していった。  予定よりもかなり前倒しで、収録曲の半数近くが完成。なおも歩みを緩めることなく楽曲制作を進めていたある日、その現象は起こった。 「そこ、もうちょっと抑揚をつけたほうがいいんじゃない?」  ん? 「そこよ、そこ!」  徹夜で作業していた俺は、懐かしくも聞き慣れた突然の声に身体をビクつかせた。 「調声が甘いってば!」  瞼をこすりながらパソコンのモニタに目をやる。すると、そこには入力した覚えのないデータが打ち込まれていた。そして、パソコンの小型スピーカーから流れるその声は、紛れもなく歌姫のものだった。  充分に睡眠が取れない日々が続き、意識が朦朧としているのだろうか……。 「早く修正してちょうだい!」 「まさか、お化け……?」 「バカなこと言ってないで、大サビの調声に入るわよ」  は、はい。  威厳たっぷりの指示を授かった俺は、言われるがまま、指摘されたデータに手を加えた。 「そうそう。それでもう一回、再生してみて。Bメロの頭からね!」  エディタ画面には、暴走するように次々とデータが打ち込まれ、その度に彼女の指示が飛んでくる。気づけば俺は、モニタに向かって返事をしていた。  にわかには信じがたいが、ボーカロイドとして生まれ変わった彼女は、自らでボーカロイドを操り、自由に会話するようになったのだ。  死者が楽曲制作に参加するなんて聞いたことがない。  しかし、今まさにレジェンド歌姫が、現場のスタッフに指示を出し、生き生きと采配を振っている。現役の頃と変わらない彼女の熱量。飽くなき探究心。妥協のない表現。死んだはずの彼女が再び、真正面から歌と向き合っている。  アルバム制作の後半は、彼女の厳しさを噛み締めながらも、その情熱に導かれるように進行していった。そして、伝説のニューアルバムは完成した。  死没したアーティストのニューアルバム。異例の事態に世界中が湧き上がった。  死者に歌わせるということに対し、倫理的な否定の声も一部にはあったが、俺としてはその意見を真っ向から否定したい。だって、俺はこのアルバムを、彼女の意思のもと、彼女と共に創ったのだから。  この新譜は歴史的なセールスを記録した。CDの販売数。ストリーミング配信の再生数。代表曲にはAI技術を駆使したミュージックビデオも制作し、その動画視聴数も爆発的に伸びた。  (たぎ)る火を消すまいと、音源をリリースしたばかりの俺たちは、全国ツアーを企画し、世に公表した。歌姫が名曲を歌う姿をひと目見たいと、瞬く間にチケットは完売。その期待に応えるべく、休む暇なくライブの準備に取り掛かった。  ライブとなれば、楽曲の調整だけに留まらない。彼女の映像を投影するホログラムの制作も求められる。アルバム制作とはまた違った戦いが待っていた。 「そこでもうちょっと、大きく腕を振ってちょうだい。違う、違うわよ! メロディーにあわせて滑らかに腕を振って欲しいの!」  彼女のリーダーシップは顕在。自身のパフォーマンスなのだから、徹底的に拘るのも当然のこと。今じゃ制作陣のすべてが、彼女の厳しい要求に汗をかきっぱなしだ。  そして、全国ツアーはスタートした。  もちろん、全国を行脚している最中も、彼女からの指示は留まることを知らない。完成している音源や映像にも微調整を要求し、ツアー中にも関わらず修正作業に追われた。  彼女は死んでからも、アーティストだった。その真髄に触れられたことが、何より嬉しかった。苦しさを乗り越えた先に歓喜が待っている。表現することに、誰より責任を感じる彼女だからこその姿勢。歌姫から学べることはあまりにも多すぎた。  熱狂冷めやらぬままに全国ツアーは終了。ファンたちからは称賛の声が挙がり、死者の再現に否定的だった声も、今じゃすっかり鳴りを潜めている。当然だ。あれほどのパフォーマンスを目の当たりにして、感服しない人間などいるはずがない。もはや新しい文化を生み出したといっても過言じゃないだろう。  もちろん、プロジェクトに携わった俺たちの偉業ではない。唯一無二の声と、天性の表現力を持つ彼女の魅力がそうさせたのだ。  日本中の音楽ファンを魅了するライブが実現できたことを、心から誇りに思う。  歌姫はツアーの最終日、こう言った。 「最高のショーをありがとう。あとのことは任せたわ」  そう言ったきり、彼女がボーカロイドを通じて現れることはなくなった。  思えば厳しい歌姫だった。それ以上に、俺にとっては優しい母親だった。  母は幼い頃からその才能を認められ、歌にすべてを捧げた。歌手人生の最盛期に俺を生み、ステージで多忙を極める中でも、俺には母親らしく接してくれた。俺はそんな母を誰よりも尊敬している。威厳溢れる歌姫であり、無償の愛を注いでくれる母親。その両方を知る俺は、なんて幸せ者なのだろう。  声が続く限り、彼女は歌姫としての歩みを止めることはない。その強い意志を俺は知っている。だから俺はその火を絶やさない。  ツアー終了後、休むことなく、次のアルバムの楽曲制作に着手した。  怒涛の日々を終え、さすがに心底疲れ果てていたのだろう。パソコンを起動したものの、眠気が襲ってきた。曲づくりをしたい欲求と、強烈な睡魔が戦っている。  デスクの上で腕枕し、重い瞼を下ろしたときだった。パソコンのスピーカーから歌声が流れてきた。  聞き慣れた声。よく知るメロディー。心地よい揺れ。集中して耳を傾けるでもなく、かと言って聞き流すわけでもない。歌声は、柔らかな温度とともに、穏やかに全身に染み渡ってくる。  それは、子どもの頃に添い寝の耳元で俺だけに歌ってくれた、母の子守歌だった。
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