海に還る

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海に還る

『《セイレーン》はね、本当にいるのよ』 撃鉄の上がる音に重なって、記憶の奥でかすれた女の声がした。 その声は弱々しくも美しかった… そうだね、母さん…《セイレーン》は本当にいたよ…本当だったよ、残念なことに… 「残念だ…本当に残念だ、オルカ…」 低い男の声には絶対的な響きあった。その場の誰もが遮ることのできない声は獅子の唸り声のように恐ろしげだ。 その声は規則正しく夜の空気を震わせる波音よりも強く響いた… 「俺はお前を息子のように思っていたんだ… 全部お前に任せていた。信頼していた。父親の期待に応えるのは家族としての息子の義務だろう?そうだろう?」 「…あなたは俺の父親でした…それは今もそう思ってます」 「そうか…ならこれはどういうことか説明してくれんか? 俺が人生をかけて手に入れた《宝物》を海に捨てるだけの納得できる理由がほしいもんだ」 「あなたが変わってしまったから… あれは《宝物》なんて良いものじゃない。人を狂わす化け物だ…」 「否定はしないな…確かにあれは《女》でも《人間》でもない。声の美しい魚の魔物さ…ギリシアの神話の名残だ… 色褪せた夢を追うのは男の浪漫だろう?木馬を探し続けたシュリーマンのようにな…」 「シュリーマンは狂人だ。あなたはもっと冷静で現実的だと思っていた…」 「皮肉か? それで?お前はその狂った男に正気を取り戻させるために《あれ》を海に帰したのか? 随分と分の悪い賭けだ…大事なもんを賭けるなら勝ち目のあるもんでやるもんだ」 《父》と慕っていた彼はもういない。 《セイレーン》の歌に心を奪われてしまった老人の耳には《息子》の声など届かないだろう… あの歌声より耳に良いものはないことは俺自身が良く知っている… それ以上言葉は無い。 立ち上る潮の香りとノイズのような波音を追い払ううように、銃が吠えた。 一つを合図に銃の咆哮がボスの銃の遠吠えに重なった。 穴の空いた身体から溢れた命の匂いは、焦げるような硝煙の匂いに混ざりながら爆ぜた肉片を岩場に張り付けた。 空気が抜けるように身体から力が抜ける。 足場の悪い岩場から転がり落ちるように海に落ちた。 命は海から来るらしい… なら、俺は海から来たから海に還るんだろう… 俺の母がそうしたように、海に身を預けた。 『オルカ…私と家族になりましょう…』 水の中だというのに、沈みゆく意識の中で聞いた彼女の声は泡沫の囁きにしては妙に鮮明だった…
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