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✩.*˚
よく晴れた成層圏から降り注ぐ青は、アドリア海に反射して、海原を遥か遠くまで青く輝かせていた。
世界一美しい海は、数々の神話と伝説と、神と魔物を生み出した。
その美しさは人々を魅了し、恐怖さえも植え付けたのだろう…
彼女はその海で生まれたから、美しく、魅力的で、時には恐ろしくさえあった。
それはアドリア海の全てを抱擁し、形容しているかのようだ。
陽光のように差し込むスポットライトの光に見守られながら、彼女はさざ波の生むノイズのような人の声を無視して歌い始めた。
彼女が何の言語で歌っているのかは分からない。鼻歌のように響く歌声は海の中で不明瞭に響くクジラの歌声に似ていた。
それでいい、と気持ちよさそうに歌う彼女の姿に安堵した。
人魚は歌わねば死ぬのだ…
比喩でもなんでもない。
俺は最悪な形でその事を知った
声の綺麗な母は、終ぞ俺の前で歌うことは無かった。記憶にある限り、ただの一度もだ…
その理由は、母が消えた一ヶ月後に、岬に流れ着いた人魚とおぼしき亡骸と関係があったのだろう…
腐敗の進んだ亡骸はすぐに回収され、俺はその姿を見ることはなかった。
その頃からだったはずだ。見慣れない男が、人魚の海に姿を見せるようになったのは…
『坊主、この辺の子供か?』
海に入って魚や貝を獲っていた子供に、観光客のような姿の男が声をかけてきた。彼はそのラフな姿には不似合いなスーツの男たちを連れていた。
彼は取り巻きに何か伝えると、見たことのないお菓子や飲み物を出して子供を誘惑した。ほしかったというより、見たことのないキラキラした菓子に目を引かれた。
手を出さない俺に、男は苦く笑って包みを開けると、甘く香ばしい菓子を子供の口にねじ込んだ。海に入って疲れていたから、初めて口にした甘い菓子は驚くほど美味かった。
『魚獲ってたのか?それどうするんだ?』
『食べる』
『ふーん…いつもここで魚獲ってんのか?』
『うん』
『そうかぁ…』と相好を崩した男はまた一つ菓子の包みを開いて俺に差し出した。
菓子を受け取った俺に、彼はおしゃべりを続けた。
『坊主、昨日もここにいただろ?一人で毎日ここに来ているのか?』と尋ねられてそれに頷いた。
男はその返事に『そうか』と次の言葉までに少しの間が空いた。
『笑うなよ?俺な、ここに人魚を探しに来たんだ。お前、この辺りで見たことないか?』
その言葉で、なんとなく母の言葉を思い出していた。
『…セイレーン?』
『まぁ、そんな感じだ。ガキなのにセイレーンなんて知っているのか?』
『お母さんが、『セイレーンはいるよ』って言ってた』
『お前のお袋さんはセイレーン見たことあるのか?』
『わかんないけど、そう言ってた』
『お前のお袋さんに会えるか?』
その言葉に首を横に振った。忘れようとしてた母を思い出して目頭が熱くなった。母が消えて時間は随分通り過ぎていたが、まだ気持ちの整理はついてなかった…
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