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俺の反応から、彼はある程度察しがついたのだろう。母に会うことを諦めたのか、それから母については何も言わなかった。
彼はそのまま少し世間話をして去っていった。
ただ、次の日も、その次の日も、彼は俺がいる岬に足を運んでくれた。
彼は熱心に子供に話しかけて、時には一緒になって浅瀬に入って遊んだ。潮が引いて取り残された魚を獲ったり、貝やカニを拾って見せると彼は子供みたいに喜んでくれた。
寂しかった俺には、彼の存在が本当の父親のように感じられて、彼もまた、俺を子供みたいに扱ってくれた。
二人の間に信頼関係が出来上がった頃、彼はいつもの観光客のような姿ではなく、かっちりとしたスーツに身を包んであの岬を訪れた。その姿に嫌な予感がして胃が痛くなった。
『オルカ。すまんな。急いで帰らなきゃならんくなった』と、彼は残念そうに言った。
また一人ぼっちになると思った。
ただ、彼は俺を一人置いて行くほど薄情になれなかったようだ。彼は俺の目線に合わせるようにかがんで、まっすぐに目を見て一つの提案をした。
『オルカよ。お前、俺の子供にならねぇか?』
その提案は口に放り込まれた甘い菓子のように甘美に響いた。
母を失った海で、俺は父を手に入れた。あの日の青い海と空を覚えている…
彼は言葉通りに、俺を家族に迎えてくれた。
彼は世間で言う悪党の部類だったが、そんなことは俺には関係なかった。家族には愛情深い父親だった。
彼に引き取られて、父に憧れた。少年が父親に憧れるのは至極当然なことだったはずだ。
新しい日々に満足していたが、ただ一つだけ、あの岬に残してきた心残りがあった…
彼女は…今もひとりぼっちで歌っているのだろうか?
親父のように、スーツの似合う大人の男になってから、あの日以来の懐かしい岬に帰った。懐かしいのは岬だけでそれ以外の人の住む場所はすっかり変わってしまっていた。
リゾートの開発を予告する無粋なフェンスが海と人の境界を隔てるようにどこまでも続いていた。
蹴飛ばしたフェンスの向こう側の海から、俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。
声を探して、いつの間にか、彼女に会ったあの洞窟に立っていた。
『オルカ…来てくれたのね』と、彼女は俺を見て微笑んだ。
十数年前と変わらぬ声と姿…
人の手に染まっていない眼の前の風景は、まるで時間が止まっていたかのように見えた。
あの日と同じように岩場を離れて、彼女は俺のところに来た。
彼女は岩場に立つ俺の足に手を伸ばして確かめるように触れた。
『あなたは、まだ、人間なのね…』と、彼女は唐突にそんな不穏な事を口にした。
『まだ生きてるよ。母さんが消えてしまったから、少し遠くに行っていたんだ。俺がいなくなったから死んだと思ってた?』と問い返すと、彼女は首を横に振って悲しみを含んだような微笑で俺を見上げた。
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