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✩.*˚
あの日。あの日は何かに仕組まれた運命の日だったのだろう…
母が体調を崩したのも、
いつもは沈んでいる海の洞窟の潮が引いていたのも、
たまたま目についたその場所に彼女がいたのも…
全部が全部、運命に仕組まれたものだったのだ…
牡蠣を岩から剥がすためのドライバーと、拾った貝を集めるバケツを持って、穴場であろう洞窟に向かった。その場所に近づいた時に波の引いた洞窟から女の歌声が聞こえた。
それは綺麗な歌声で、洞窟に反響する声は、さながらオーケストラのような深い響きを孕んで空気に音の波を刻んでいた。
その歌声は好奇心の強い少年を洞窟に誘い込むのに十分だった。
太陽光の差し込む洞窟の中で、彼女はスポットライトを浴びたスターのように歌を歌っていた。
金色に煌めく髪はオーロラのように波打って、下半身を覆う鱗は海の色を含み、青いスパンコールのように輝いて視線を釘付けにした。
足が前に出た。
不意に現れた少年の姿に、彼女は金粉を撒いたようなラピスラズリの瞳を向けた。
歌うバラ色の唇の端は微笑むように上がり、その唇の隙間から覗く口元に、八重歯のような鋭い牙が並んでいるのが見えた。
歌声が止まる。
気持ちよさそうに歌っていた彼女の邪魔をしてしまったような気がして怖くなった。足の止まった俺に、彼女が人の言葉を口にした。
「いらっしゃい、ぼうや」
シャラランと、揺れた金属の擦れるような不思議な響きを含んだ声が洞窟に響く。
足が竦んで前に出ない俺に、彼女はズルズルと洞窟のステージから降りてやってきた。
彼女は不思議そうな顔で俺の顔を覗き込むと、首をかしげて俺の顔に手を添えた。
「あなた。私の声が響かないの?」
不思議な響きが鼓膜に響いたが、彼女の言葉は俺を支配する程の力はなかったようだ。
「おねえさんは…《セイレーン》なの?」と、幼い頭で思いついた名前を口にした。
彼女の顔に寂しげな表情が見えたのは、それがひとり親の母とどことなく重なったからだ…
母に、見たことの無い父について訊ねたことを酷く後悔した時のそれだ…
「そうね…そうかもしれないわ」
「自分のことが分からないの?」
「覚えてないの…誰も名前を呼ばなくなったから…」
彼女はそう言って、白い細い腕を伸ばして俺を抱いた。彼女の腕は死人のようにひんやりとしていて冷たかった。
「ぼうや。ぼうやの事を知りたいわ…名前はなぁに?」
「…オルカ」
「オルカ?随分荒っぽい名前をもらったのね」
「おねえさんはシャチは嫌い?」
「ううん、嫌いじゃないわ。お友達だったこともあるもの」
「じゃぁ、俺たち友達になれるね」
何気なく言った子供の戯言に、彼女の藍色の瞳が揺れた。その感情を読み取るには、俺はまだ子供過ぎた…
「えぇ…そうね、とても素敵だわ…とても」
そう呟いた彼女の心に気づいたのは、俺が呪われて、人間を辞めてしまった後だった…
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