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「ご機嫌ね、オルカ」
満月に照らされた海を泳ぎながら彼女は水の中で響く声で俺に語りかけた。
額に響いた声は愛撫のように優しい。
水に響くように、音の波を返した。
「久しぶりの君とのデートだ。ご機嫌にもなるよ」
彼女はラスベガスで歌ってから調子が良いみたいだ。
あの夜歌ったことで、彼女は副産物として人間たちから生気を吸い上げていた。
数年の寿命と引き換えに、直接セイレーンの歌を聞くことできたのだから、悪い条件ではないだろう。
あの観客たちは今でも彼女の歌が耳から離れないで居るはずだ。彼女の歌声は魂にこびりついて死の間際まで支配し続る呪いになる。
この歌声を聞いて無事でいられるのは同じセイレーンかセイレーンの子供たちだけだ…
そして俺の知っている限り、それは俺を含めてたったの三人しかいない。
彼女は蠱惑的な笑みを口元に灯すと、じゃれるように俺の背びれに手をかけた。
「どこに行くの?」と、撫でるような優しい綺麗な声が額に響く。
「君が望むならどこへでも行くよ」と、鼻から泡沫を逃がして答えた。
「あまり遠くに行くと、子供たちが心配するわよ。あなたの新しいペットも」
「あぁ、そうだね。後で叱られよう」と、悪戯を共有する子どものように、彼女と二人で笑いあった。
尾びれで力いっぱい水を蹴った。目的があるわけではないが、夜の海を遠くまで泳ぎたい気分だ。
かき混ぜられた水は泡沫を含ませて飛行機雲のように軌跡を残した。
野生のオルカの最高時速は80kmもあるらしい。駆け足でも時速50kmで泳げるのだから、俺達が出会ったあの岬にだって行ける気がした。
息が切れて、大きく息継ぎしながら夜気に含まれた潮の香りを堪能した。
コバンザメのように背びれを握った彼女も楽しそうだ。気持ちよさそうにハミングしながらダンスのように俺に合わせてくれた。お陰で泳ぐのも楽だった。
海は好きだ…
それはこの身体に刻まれた本能なのだろう。
俺が海に還るその日まで、この海原の行き着く先まで駆けたいと、本能が叫んでいる。
「オルカ…私はいつまで待てばいい?」
泳ぎ疲れ、速度が落ちたタイミングで彼女が俺に訊ねた。
俺自身、何度か海に戻ろうとしたが、その度に何かに引っ張られて陸に戻ってしまっていた。その何かを解決するまで、俺は陸に縛られている。
セイレーンはセイレーンを感じ取れる。近しい者であればなおさらだ。
セイレーンの子供はセイレーンのためだけの存在。俺の中には母と彼女の二人のセイレーンが居る。俺の《セイレーンの子》の本能は二人のセイレーンを求めていた。
亡骸とはいえ、正体を知った今では母を放って自分だけ海に帰ることはできなかった…
その母の亡骸は時代と共に居場所を転々として、今はあの砂漠の最奥に極秘として保管されていると噂されていた。
「母を取り返したら、君との約束を果たすよ。だからもう少し待ってほしい」
「仕方ないぼうやね…」
「マザコンですまないね」
「お母様を大事にするのはいいことよ。特に、セイレーンにとってはね」
彼女は自分より母を優先した男を叱らなかった。残念そうだが、どこか諦めているような感じだ。
空を横切る満月は時計のない場所でもゆっくり時間を刻んでいた。
燃えるような紫を纏った太陽が朝焼けを振りまく前に戻らないと、心配した息子たちに探されてしまう。
「白熊が気づいたらきっとカンカンね」
「カモメがうるさそうだ」
二人で笑い合って、朝焼けから逃げるように彼女を連れて帰るために尾びれを振った。
沖の海に星屑のような泡沫を残して、重なった2つの影は愛し合うようにセイレーンの家族の待つ隠れ家に帰った。
✩.*˚Fin✩.*˚

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