3. 爪

1/1

10人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

3. 爪

和音は抜群のセンスを持っていた。 「春よ、来い」はもともとピアノ用だった楽譜を箏曲用にアレンジしたもの。難易度が高いと言われていたのに、和音はあっという間に自分のものにした。 悔しくて、わたしは帰宅後も自作の箏――段ボールに糸を13本張ったダサい代物(しろもの)――を弾いてイメトレを繰り返した。 その成果もあって、6月に入るとわたしは「さくらさくら」も「うさぎ」もほぼ完璧に弾けるようになった。 それでも和音とわたしの差は開く一方だった。 「ひまちゃんも一緒に練習しようよ」 和音が課題曲の楽譜を見せて誘ってきた。 「春よ、来い」は切ないメロディーに胸がきゅんとする、大好きな曲だった。 「うん、ありがと」 無理に笑顔をつくる。だけど、と間を置く。 「先輩たちに遊んでると思われそうだし。ごめん、自分の曲に専念するね」 ああ、自己嫌悪。 不思議そうにこちらを見てくる和音と目を合わせられない。 一つ上のレベルに挑戦できるチャンスだったのに。 すぐにはできなくても、今までみたいに練習を続ければ、和音に追いつけるかもしれないのに。 でも、やっぱり無理だったら? 追いつけなかったら? 冷静で感情的な自分が、逃げることを選ばせた。 その日の帰り、わたしは(あやま)ちを犯した。 鍵のない私物ロッカーから和音の巾着袋を取り出して、隣に入っている真坂先輩のペンケースの裏に隠した。 誰にも見られていないことを確認して、そのまま帰路についた。 友達への憧れが、嫉妬に変わっていた。 巾着袋の中には、演奏時に指先にはめる「爪」が入っている。 弱いわたしに、それを盗んだり壊したりする勇気はない。 せめて和音が爪を探して、練習時間が短くなればいいと思った。 情けなくて(みじ)めになったわたしは、自宅に帰るなり段ボールを思い切り蹴飛ばした。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加