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一匹の蛍が網戸に止まり、光を瞬かせた。
蛍の覗いた室内は仄暗く、窓際には小さな文机があり、その上に置かれた卓上灯が唯一の灯りだった。その小さな灯りがノートに書かれた五線譜を照らしている。机を前にして一人の男が頭を抱えていた。
ケロケロ、ケロット、ケロケロ、ケロット、ケロケロット♪
カエルの鳴き声が苦悩する男の事など知らぬげに響いている。
ケロケロ、ケロット、ケロケロ、ケロット、ケロケロット♪
「ちがーう! テノール!! もっと音を揃えろぉぉぉぉぉぉ!」
男はガバッと立ち上がり勢いよく網戸を開けると、目の前に広がる棚田に向かって叫んだ。その声に驚いて、蛍は飛び立つ。
「くのぅ! 音痴どもめぇぇ!! そこは、ケロケロケロ♪ ケロケロケロ♪ だろうがぁ!」
ケロケロケロ、ケロケロケロ、ケロケロケロ♪
男の思いが通じたのか、蛙の合唱が修正される。男は満足したように網戸を閉め、文机の前に座り直した。放り出していた万年筆を取り上げて、一音も記されていない五線譜を前に唸る。
蛍は網戸に戻り、男の手元を見ていた。
ゲ、ゲ、ゲ、ゲロゲロゲーロ ゲ……。コロコロコロ、ゲ……。コロコロコロ、ゲロゲロ♫
蛙の合唱は新しいパートに入った。それを聴きながら、男は思いっきり万年筆を握りしめている。
ゲ、ゲ、ゲ、ゲロゲロゲーロ ゲ……。コロコロコロ、ゲ……。コロコロコロ、ゲロゲロ♫
そして男は再び網戸をガバッと開け、叫んだ。
「ソプラノ! 半歩おそーい!! バスの音をよく聞け! タイミングを合わせろーー!」
網戸の蛍は、ふわっと宙に舞う。
ゲ、ゲ、ゲ、ゲロゲロゲーロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ♫
再度蛙の合唱が修正され、蛍はまた網戸に止まった。 ……だが。
グワ、グワ、グワ、クワ、グワ、クワ。グ、クワ♪
コロロロロ、コロ……グワグワグワッ♫
グワ、グワ、グワ、クワ、グワ、クワ。グ、クワ♪
コロロロロ、コロ……グワグワグワッ♫
男は怒りに身を震わせる。
そう、自分の作曲に集中したいのに、蛙の歌声は確実に彼の邪魔をしている。今度こそ無視して自分のやるべき事を! と思ったらしい男はそれでも我慢できなくなったのか、三度、網戸を開け叫んだ。
「バリトン! 必要ない所までしゃしゃり出るな! 歌声のバランスが崩れるだろーがっ!!」
蛍は、またふわっと宙に舞った。
グワ、グワ、グワ、グワ、グワ、グワ。グワ♪
コロロロロ、コロロロロ コロコロロ♫
蛙の歌声が修正され、男はこれでやっと自分の曲作りに戻れるぞと思ったのか、どさっと腰を下ろし万年筆を取る。
その男を観察するように、蛍はまたまた網戸に止まった。
ケロケロケロ、ケロケロケロ、ケロケロケロ♪
ケロケロケロ、ケロケロケロ、ケロケロケロ♪
ゲ、ゲ、ゲ、ゲロゲロゲーロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ♫
ゲ、ゲ、ゲ、ゲロゲロゲーロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ♫
グワ、グワ、グワ、グワ、グワ、グワ。グワ♪
コロロロロ、コロロロロ コロコロロ♫
グワ、グワ、グワ、グワ、グワ、グワ。グワ♪
コロロロロ、コロロロロ コロコロロ♫
男は頭を掻きむしっている。だが、どんなに頑張っても、彼の頭の中には美しいメロディは一つも浮かばなかったようだ。
しばらく頭をガリガリやっていた男は、とうとう煮詰まったのか髪を掴み絶叫した。
「違う、こんな歌じゃない。俺の歌いたいのは、俺の奇跡の歌声、ソプラノからバスまでカバーできるこの声帯をフル活用して歌う! 俺だけが歌える歌だ!!」
男の苦悩など知らぬげに、棚田では蛙の合唱が響いている。
ケロケロケロ、ケロケロケロ、ケロケロケロ♪
ケロケロケロ、ケロケロケロ、ケロケロケロ♪
ゲ、ゲ、ゲ、ゲロゲロゲーロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ♫
ゲ、ゲ、ゲ、ゲロゲロゲーロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ♫
グワ、グワ、グワ、グワ、グワ、グワ。グワ♪
コロロロロ、コロロロロ コロコロロ♫
グワ、グワ、グワ、グワ、グワ、グワ。グワ♪
コロロロロ、コロロロロ コロコロロ♫
……くそっ! あんのぅ、蛙どもめ!!
男は湧き出る怒りに突き動かされて、網戸を開けた。
「そんなもんでどうするんだ! お前らはぁっ!! お前らが歌ってるのは愛の歌だろうが!! もっと、もっと心を込めて! 甘い声で!! これ以上ないと思える歌を歌えっ!!」
蛙の合唱が途切れた。
ケロケロケロ、ケロケロケロ、ケロケロケロ♪
ケロケロケロ、ケロケロケロ、ケロケロケロ♪
程なくして始まった蛙の合唱は、間違いなくさっきまでの歌声とは違った。
その歌を聴きながら男はやれやれと座り直した。そして引き出しを開け、中から一通の手紙を取り出す。
<愛しいあなた。作曲はうまくいっているでしょうか?
あなたが東京を離れると決心されたのは仕方ないと思います。作曲にはやはり静かな場所の方がふさわしいのでしょう。
だから、田舎に帰られた理由もわかります。
ですが、私はあなたの美しい歌声がこれからしばらく聞けなくなると思うと、とても寂しいです。早く東京に帰ってきて、あなたの歌でまた私に愛を囁いてください。
待っています。
あなたの恋人より>
その手紙を、読んで男は天を仰いだ。期待されているのだ、最愛の人に。なんとしてもその期待に応えたい。だが、初めての曲作りはそんなに捗っていない。
ゲ、ゲ、ゲ、ゲロゲロゲーロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ♫
ゲ、ゲ、ゲ、ゲロゲロゲーロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ♫
彼女に捧げる歌を、完璧な歌を歌いたい! その思いが溢れてくる。完璧な愛の歌を……。
グワ、グワ、グワ、グワ、グワ、グワ。グワ♪
コロロロロ、コロロロロ コロコロロ♫
開いた窓から蛍が部屋の中にふわふわと入り『愛』の文字の上で止まって、光を点滅させた。
グワ、グワ、グワ、グワ、グワ、グワ。グワ♪
コロロロロ、コロロロロ コロコロロ♫
外からは蛙の『愛』の歌が響いている。
「そうだ! これだ!!」
そう叫ぶと、男は一心不乱に五線譜の上にペンを走らせた。
……。
ケロケロケロ、ケロケロケロ、ケロケロケロ♪
ケロケロケロ、ケロケロケロ、ケロケロケロ♪
ゲ、ゲ、ゲ、ゲロゲロゲーロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ♫
ゲ、ゲ、ゲ、ゲロゲロゲーロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ ゲロゲロゲロ・コロコロコロ♫
グワ、グワ、グワ、グワ、グワ、グワ。グワ♪
コロロロロ、コロロロロ コロコロロ♫
グワ、グワ、グワ、グワ、グワ、グワ。グワ♪
コロロロロ、コロロロロ コロコロロ♫
その歌手の声は、ホールの中に響き渡った。全ての音域を一人でカバーする見事な歌声が。
客席の人々はその歌のあまりの美しさに感動し、男が歌い終わり舞台袖に引っ込んでもなお、長い間拍手が鳴り止まなかった。
「あなた。今日の新聞の一面は昨日のあなたの歌を絶賛する記事よ」
「そうか! どれどれ」
<昨日のMr.〇〇の公演はまさに神がかっていると言って良いでしょう。
彼の声は間違いなく奇跡を体現していますが、昨夜披露されたその歌は、我々の郷愁を誘うもの! 彼の歌声は、満場の聴衆を日本の原風景である棚田へと連れて行ってくれました。
目の前に、誰もが懐かしく思う景色が広がり……>
「はっはっはっ! まあ、俺が本気を出せばこんなものだよ。ハニー」
男はそう言って、コーヒーを片手にニヤリと笑って見せた。
高層マンションの最上階。窓際に置かれた虫籠の中で、早朝にも関わらず蛍はふっと光った。
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