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血 闘
かれの目の前の巨大な影は、むろん幻影などではなかった。
邪龍……と呼ばれていた。
が、本当の名は解らない。それは、対決の場において、互いが真の名を告げ合い、おのれの来歴と数々の実績を明かしてから、闘うのであるが、その邪龍に打ち勝った勇者は一人としていなかったのだ。だから、邪龍の真名は世に伝わっていない……。
いま。
まさに、邪龍に挑む一人の若き勇者があった。歴戦の勇士ではないから、その勇者には二つ名も通り名もなにもなかった。
まずは、邪龍が延々と自らの来歴を語り続けるのを勇者はただじっと聴いていた。
じつは、互いの真名を告げ合い、来歴を相手に語るときから、すでに闘いははじまっているのだった。なぜならば、ことさら相手を威嚇し、畏れを抱かせ、あらかじめ想定していたであろう戦術の変更を企図しているからなのだ。咄嗟の作戦変更は、いわば、流れを変えてしまうことにつながる……。
我慢強く勇者は邪龍の名乗りを聴いている。ひたすら聴くこともまた、勇気の証なのだ。
ようやく、邪龍の名乗りが終わり、勇者の番になった。
かれは、大きく息を吸い込むと、溜めに溜めた思いのたけをぶちまけ出した。
「……ようく聴くがよかろう。我こそは………」
勇者は語った。
吠えた。
叫んだ。
吐いた。
一昼夜(この世界では約48時間に相当)過ぎても、勇者の名乗りは終わらない。
かれは告げた、吠えた、語った……。
五昼夜過ぎて、ようやく勇者の名乗りが終わったとき、かれの目の前の邪龍はあまりの疲労にうたた寝をしていた。
「いざ、まいるぞ……!」
名乗りを最後まで聴こうとしない礼儀知らずの邪龍になんの斟酌も必要ない。
勇者はスパッと剣を引き抜くと、邪龍に向かって勇ましく跳んだ……。
○
その血闘以降、勇者は
〈歌う覇者〉
という二つ名を得た。
人々はそう噂しあい、勇者を褒め称え、その一方で畏れもするのだった。
「あ、来たぞ、来たぞ、歌う覇者様だ。みんな、気をつけろ、へたに擦り寄って冒険話を聴くんじゃないぞ。いいか、気をつけるんだぜ!」
「でもさ、ほんの少しぐらいなら話して欲しいなぁ。いろんなこと聴きたいし」
「あ、の、な、歌う覇者様には、そんな温情は無用だ。なんといっても、あの邪龍を打ち倒したほどの悪声と音痴だというからな。一瞬で、こっちの鼓膜が裂けちまうぞ!」
歌う覇者のもう一つの通り名を、
〈三猿王〉
と、人々は名付けた。
見ざる、言わざる、聴かざる……
勇者の名誉を広く深く後世にまで歌い続けるのは、あくまでも名もなき大衆たちなのである……
〈おわり😶🌫️〉
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