いざ、せつ子街に!

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 予想した通り、母は英語の歌詞を覚えるのに苦戦していた。覚えたはしから忘れてしまうようで、よく「ああ、もう!」と言いながら自分の頭を小突いていた。  繰り返しも多いし、それほど難しい単語もない。要は、英語に対する苦手意識が問題なのだった。 「ちゃんと意味は理解してるん?」  正攻法で、一から教えるしかないと思った時だった。 「お母さん、英語やと思うから覚えられへんねん」  俺から光江さんの話を聞いた途端、応援モードに突入した妹が口を挟んだ。そして「こんなんに頼ったら、あかん!」と母の手から歌詞カードをひったくり、ぽいと放り投げた。 「何すんの! それはシュッとしたシュルツ先生が書いてくれはった大事な……」  慌てふためく母を無視し、母のスマートフォンを操作する。直に陽気な歌声が流れ出した。  妹は目を閉じ、ブツブツと口ずさみながら耳を傾ける。難しい顔で繰り返し聴いていたが、突然瞳を輝かせると、「応援、いざ、せつ子街に!」と叫んだ。  「はぃ? どうやったら、Oh, when the saints go marching in が、せつ子さんが街に行く話になるねん」 「亜紀ちゃんすごい!」  だが、せせら笑った俺を勢いよく押し退けると、母は妹に抱きついた。 「田舎育ちのせっちゃんが、勇気を出して都会の街に出ようとしはるねんね!」  俺の膝からカクッと力が抜けた。  英語の歌詞は、その後も妹の手で翻訳されていった。  Oh, Lord, I wanna be in that number. は、 大野愛はな美人だナンパ(ホンマかいな)に。    Up where the streets are paved with gold.は、阿波座ストリートはペイビーゴー(何やそれ)となった。  母の喜びように、ほっとしたような、ちょっと悔しいような、複雑な思いがした。だがその日には、まだおまけが付いていた。  夜、妹が「お兄ちゃん、大変や」と部屋にやって来た。見てみろと、タブレットを差し出す。 「あれ、お葬式の歌やったわ」 「絶対あかんやつやん!」  そしてあっという間に、本番当日がやって来た。
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