31人が本棚に入れています
本棚に追加
夕暮れの中、一歩ごとに自分の影が輪郭を失ってゆく。神社の前を通りかかった時、鳥居からぬっと虎が現れて、俺を見て立ち止まった。
「隆史君、お帰り。元気ないやん。どないしたん」
喋る猛獣は、もうすぐ絶滅危惧種に指定されるという。あの新世界の密林にさえ、数頭残っているのみだとか。
「光江さん、……」
こんにちはか今晩はか、正解が分からなかった俺は黙り込むしかなかった。
「ま、どないしたん、やあらへんわな」
俺の沈黙を勝手に理解して、光代さんは微笑んだ。
「せやけど、お母さんにクソババァはあかんで」
「すいません」
「私やなくて、お母さんに謝らな」
並んで歩きだした光江さんの背は、俺の肩までしかない。いつも強めのファッションだから、大きく見えるだけなのか。
「お母さん、ジャズフェス、出ぇへんかも」
「えっ、ほんまですか」
光江さんは俺を見上げると、ふっとため息をついた。
「まあ、あんたも難しい年頃やし、気持ちは分からんでもない。せやけど、雅ちゃんは自分のために出場を決めたんやあらへんねんで」
母の名は、松田雅美という。俺は黙ったまま、首を傾げた。
「おばちゃん、実は乳癌やねん」
えっ、と言ったきり言葉が続かなかった。
「もうええ年やし、手術とか抗ガン治療は、いらんかな思てな」
手術をシュズツ、みたいに発音した。
「死ぬ時が来たら死ぬわって、そう皆に言うてん」
「光江さん、まだ若いじゃないですか」
治療を諦めるほど年寄ではないという意味で言うと、光江さんは「そんな褒めても何もでぇへんで」と笑い、わりと強めに俺の脇腹を小突いた。
「そしたら雅ちゃん、私がジャズフェスで優勝したら手術受けるか、言うてな。私が冗談で、よっしゃ、分かった、その時はまな板の鯉になったるわ言うたら、さっさと申し込みしてきたんや」
あんたのお母ちゃんはな、そういう優しい人やねん。
光江さんは「ま、そういうこっちゃ!」と言い残して去って行った。
俺は暫く虎の後姿を見送った。胸が熱くて切なかった。母が歌うのは、大好きな光江さんへの応援歌だったのだ。
俺の心は定まった。
最初のコメントを投稿しよう!