いざ、せつ子街に!

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 夕暮れの中、一歩ごとに自分の影が輪郭を失ってゆく。神社の前を通りかかった時、鳥居からぬっと虎が現れて、俺を見て立ち止まった。 「隆史君、お帰り。元気ないやん。どないしたん」  喋る猛獣は、もうすぐ絶滅危惧種に指定されるという。あの新世界の密林にさえ、数頭残っているのみだとか。 「光江さん、……」  こんにちはか今晩はか、正解が分からなかった俺は黙り込むしかなかった。 「ま、どないしたん、やあらへんわな」  俺の沈黙を勝手に理解して、光代さんは微笑んだ。 「せやけど、お母さんにクソババァはあかんで」 「すいません」 「私やなくて、お母さんに謝らな」  並んで歩きだした光江さんの背は、俺の肩までしかない。いつも強めのファッションだから、大きく見えるだけなのか。 「お母さん、ジャズフェス、出ぇへんかも」 「えっ、ほんまですか」  光江さんは俺を見上げると、ふっとため息をついた。 「まあ、あんたも難しい年頃やし、気持ちは分からんでもない。せやけど、雅ちゃんは自分のために出場を決めたんやあらへんねんで」  母の名は、松田雅美という。俺は黙ったまま、首を傾げた。 「おばちゃん、実は乳癌やねん」  えっ、と言ったきり言葉が続かなかった。 「もうええ年やし、手術とか抗ガン治療は、いらんかな思てな」  手術をシュズツ、みたいに発音した。 「死ぬ時が来たら死ぬわって、そう皆に言うてん」 「光江さん、まだ若いじゃないですか」  治療を諦めるほど年寄ではないという意味で言うと、光江さんは「そんな褒めても何もでぇへんで」と笑い、わりと強めに俺の脇腹を小突いた。 「そしたら雅ちゃん、私がジャズフェスで優勝したら手術受けるか、言うてな。私が冗談で、よっしゃ、分かった、その時はまな板の鯉になったるわ言うたら、さっさと申し込みしてきたんや」  あんたのお母ちゃんはな、そういう優しい人やねん。  光江さんは「ま、そういうこっちゃ!」と言い残して去って行った。  俺は暫く虎の後姿を見送った。胸が熱くて切なかった。母が歌うのは、大好きな光江さんへの応援歌だったのだ。  俺の心は定まった。
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