セイレン

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セイレン

 ひと月ほど前から、8歳になる息子が私の知らない歌を時折口ずさむようになった。メロディーはもちろん、歌詞も全く聴き覚えがない。それどころかその言語すらもどこの国のものか分からなかった。  どこで聞いたのかをヨシキに訊ねても、「あっち」としか答えない。あまり執拗に問いただすと心を閉ざしてしまうので、私もそうなのと応じるしかない。  彼は自閉症だ。こういった類の障害を持つ人の中には、記憶力や芸術など、ある特定の分野に高い能力を示すことがあるそうだ。いわゆるサヴァン症候群というやつだ。息子もそうなのだろうか。どこかで一瞬聞いただけの歌を覚えてしまったのか?  なんとか聞き取れた単語をネットで調べたり、メロディーを鼻歌検索にかけたりもしたがヒットすることはなかった。ただ、SNSである書き込みを見つけた。私と同じように、子供が突然知らない歌を歌いだすと言うものだ。それも複数のアカウントで。そのうちの一人は、歌はいつも同じ方角から聞こえてくるらしく、近々その出所を探すために旅に出るつもりだと投稿していた。  そう言えば、ヨシキに訊ねたときは「あっち」としか言わなかったが、彼もまたそうなのだろうか?  ためしに何度か場所を変えつつ、歌が聞こえてくる方向を指差すように言ってみた。すると指先は常に同じ方角を指し示していた。  その週末、私は息子を助手席に乗せて車を走らせた。進路はもちろん歌が聞こえてくると彼が指差す先だ。  一時間ほど走るうちに海に出た。海水浴場などではなく、ひと気のない狭い浅瀬だ。  ヨシキと手をつなぎ、波打ち際に立つ。海と歌というキーワードから、私の脳裏にある言葉が浮かび上がった。  セイレン。サイレンともセイレーンともいう。ギリシャ神話に登場する半人半鳥の魔女だ。美しい歌声で船乗りを誘い、死に至らしめる。  まさか息子に聞こえる歌がセイレンのものなのか?だったらそれに誘われた私たちにはもうすぐ死が……。  よからぬ思いを振り払うように頭を振り、視線を沖のほうに向けた。  何かが見えた。水平線からこちらに向かい、丸い物体がやってくる。  音もなく目の前まで来たそれは、まるで巨大な釜のような物体だった。その一部が扉のように開き、中から人が出てきた。黒髪の美しい女性だ。小脇に箱を抱えている。  半人半鳥ではないことに胸を撫で下ろすものの、目の前の光景はセイレンに負けず劣らず常軌を逸している。いったいこれはなんなのだ?まるで、UFOのよう……。 「ヨク来マシタ。サア、一緒ニ行キマショウ」  人工的な声は抱えた箱から聞こえてきた。彼女は空いたほうの手をヨシキに差し出した。  自閉症のはずの息子が、なぜか小さく頷き足を踏み出した。  慌ててその手を引いた。どうしてと言いたげに彼は私に抗議の眼差しをくれた。黒髪の女も小首をかしげて私のことを見ている。 「あなた何者?息子をどうするつもり?」 「コノ穢レタ世界カラ救イ出シテアゲルノデス」 「救い出すって、どこへ?」 「新シキ世界デス」 「は?なにそれ」 「コノ惑星ハ間モナク終ワリヲ迎エマス。欲ニマミレタ人類ハコノ星ト共ニ滅ブ運命ナノデス。タダ、ソノ中ニモワズカナ光明ガ現レマシタ。ソノ子ノヨウニ、清ラカニ進化シタ人間デス。コノ子ラコソ、次ノ世代ノ人類。我々ノ歌ハ穢レタ心ニハ届カナイ。コノ歌デ、我々ハ新人類ヲ新シキ世界ヘト導クノデス。ツマリコレハ、彼ラヲ新世界ヘト移住サセル計画ナノデス」  サヴァンか。咄嗟にそう思った。その特殊な能力は進化の証だったのだ。自閉症や適応障害にしてもそうだ。それは穢れた世間と交わらないためのバリアのようなものかもしれない。  だったら、もし本当にそんな新しい世界があるのなら、ヨシキにとってそちらのほうがきっと住みよい世界になるはずだ。 「わかったわ。この子を連れて行って。ただし、私も一緒じゃなきゃダメ。この子には母親である私が必要なの」  言いながら息子の手を引き、黒髪の女に近寄ろうとしたそのとき、 「下ガレ下等ナ人間ヨ。新シキ世界ニ行ケルノハ、清廉ナル魂ヲ持ツ者ノミ!」  目に見えない波動のようなものに襲われ、私だけがしりもちをついた。息子は私の手をするりとほどき黒髪の女の方へと歩き出す。  彼女はヨシキをいざないながら、巨大な釜のような物体の中へと戻っていった。そして、それは見る見る浜辺から遠ざかり、水平線の彼方へと姿を消した。  その様子を呆然と見届けた私は、我に返るなり自虐の笑みを浮かべた。この星が滅ぶと聞かされたとき、息子をだしにしてでもなんとか助かりたいと思ってしまったからだ。それを見透かされていたのだろう。私も穢れた魂を持つ古い人間ってことだ。   歌に誘われ来てみれば、セイレンに取り殺されるどころか息子は滅び行く運命から救われた。でも、私に死を悟らせたあの黒髪の女は、ある意味セイレンだったのかもしれない。
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