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お屋敷の仕事は多岐に渡りました。小さいお屋敷ですから、使用人はそう多くはありません。ですから複数の役割をこなす必要がありました。家政婦でありながら、時には家庭教師のようなことまで。
そう、私に与えられたピアニストという役割は演奏家ではなく、お嬢様に対する指導者という意味でしかなかったのです。
……それに少しも落胆しなかったと言えば嘘になりますが、一度お嬢様の演奏を耳にしたならば、その憂いも一瞬で掻き消えてしまいました。
ピアノは打楽器です。鍵盤を押す指の力が必ず必要になります。お嬢様がピアノをお弾きする際には、必ず誰かが寝台から抱き起こし、ピアノの前の椅子へお掛けになるのを介助しなければなりません。
だと言うのに。お嬢様の演奏は、あまりに圧倒的でした。
お嬢様の指は、鍵盤の上を忙しく駆け回りました。まるで水場を飛び回る小鳥のような装飾音、今目の前に居たかと思えば、次の瞬間には遠く離れたところにいる。
そしてその音は正確で、一音も外れることはありませんでした。あの短く細い指で、一体どんな魔法を使ったのかと目を疑うほど、正確に。お嬢様の指は正しい鍵盤を、一寸の狂いもなく叩いておりました。
鍵盤を適切な力加減で叩くことがどれほど難しいか。私はその身を以て知っておりました。
弱すぎれば音は鳴らず、強すぎれば反動までが音に響き、隣の鍵盤に当たろうものなら不協和音が響き、一度指が滑れば演奏は総崩れになる。
一体その小さな体のどこにそんな力があるのかと目を疑うほど、お嬢様は全身全霊で音を奏でておられました。
お嬢様の演奏はまるで生まれつきその身に正しい音が備わっているかのように非の打ち所がなく、また鳥の歌のように抑揚があり、聴く者全ての耳に"音楽"を楽しませる、完璧なものでした。
お嬢様の演奏が止んだ時、身の程を弁えていた静寂がふっと湧き出してくるかのように、辺り一体を占めました。ですがそれは完全に元と同じようには溶け切らず、端々にお嬢様の演奏の余韻を残しておりました。
私自身もお嬢様へ畏敬の念を抱き、元のように振る舞うには時間を要しました。
「とても……お上手でございます。私では力不足でございます。私に教えられることなど何もございません」
「構いません。お父様は私の話し相手を求めていたのですから。同年代で、同性で、身分の相応しい者。それを炙り出すための条件が、ピアニストだったのでしょう」
お嬢様は聡明で、私には到底思い至らない点まで、何もかもお見通しでございました。
「この体ですから、私はこの屋敷から出られません。私が音楽を愛していても、お父様が招き入れる演奏家の方の演奏を思い出すより他にはないの。そう言った方々はお忙しくて、いつまでもこのお屋敷に逗留されることはない。ですから、貴女が来てくれて本当に嬉しく思っているのよ」
お嬢様は私の手を取って、私の顔を見上げました。潤んだ瞳に私の姿が映し出されておりました。
「これからどうかよろしくお願いね、〓〓」
その瞬間から、私は生涯お嬢様に仕えようと心に決意したのでした。
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