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そうしてお屋敷での生活は始まりました。朝日が昇る前より家政婦としての仕事を済ませ、午後にはお嬢様とのひと時を過ごし、再び仕事に戻る。お嬢様がご就寝なされたのを確認し、私も就寝する。そういった日々が何年も続きました。
お嬢様との練習を進める度、お嬢様は様々なお話をしてくださいました。私に心を開いてくださっていたのでしょう。
お嬢様のお母様は亡くなられ、今は旦那様と二人きり。旦那様も週の前半は本宅で過ごし、週末だけこちらの別宅にいらっしゃるのだと言うこと。そして旦那様がせめてもの慰みにとお与えになったのが、ピアノだったのでございます。
「ピアノは好きよ。私が大きな声で歌えない分、代わりに大きな音を出してくれるもの。疲れはするけれど……それは声を出すのも同じことでしょう?」
お嬢様が鍵盤を一つ押すと、ポーンと音が響きました。音は震えながら行き過ぎると、やがて消えてしまいました。
「だけど、歌ほど自由だとは思わないわ。どんなに指が動いても、私の萎えた足ではペダルを踏むことができない。どんなにたくさんの楽譜があっても、作曲家の意図を再現できないもの」
お嬢様は悲しく笑いました。
この頃、ピアノにもオルガンのようにペダルが付くようになり、当世の作曲家たちはこぞってその表現を楽譜に書き込むようになりました。
お屋敷のピアノは古く、ペダルがございませんでした。旦那様は足の悪いお嬢様には不要とお考えだったのか、新しいピアノがご用意される様子はございませんでした。
「私のピアノはどこまで届くのかしら。屋敷の外まで届くかしら。ひょっとしたらこの部屋の中でしか聞こえないのではないかしら。この部屋の外に、本当に世界はあるのかしら」
「私が洗濯をしている時、お庭まで聞こえております」
「そうなの、嬉しいわ。なら貴女が洗濯している時に聞こえるように弾くことにするわ」
お嬢様はその他愛もないお約束を律儀に守ってくださって、私は洗濯をする間、いつもお嬢様のピアノに耳を傾けていたのでした。
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