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私の朝の仕事に、お嬢様の部屋の窓を開けることが加わりました。朝は私が仕事で不在にしておりますから、お嬢様の孤独を紛らわすためにも、小鳥の存在は必要不可欠に思えました。
その頃にはもう、私がピアノを弾くことはほとんどなくなっておりました。
お庭に出ても、もうお嬢様のピアノを聴くこともありません。リラの木越しに窓を見上げます。きっとあの窓の内で小鳥に歌を教えているのでしょう。そっと耳を澄ませてみますが、聞こえるのは風の吹き荒ぶ音だけでした。
洗濯を終えてお屋敷へ戻ると、廊下で旦那様とすれ違いました。
その頃、旦那様は本宅へおいでになることが多く、別宅へ来ることはほとんどございませんでした。家業が忙しくあったのでございましょう。久々にお会いした旦那様は少し窶れたご様子で、疲労の色が見えました。
「何か変わりはないかね?」
「いえ、何も」
旦那様は二、三の質問をされた後、書斎へと入って行かれました。その背は、酷く曲がっておられました。
その日の夜のことでございます。夜の仕事を終えて、お嬢様のお部屋を確認しに行きました。
物音を立てないよう細心の注意を払いながら戸を開けます。窓から月の薄明かりがお部屋を照らしておりました。
微かな衣擦れの音がして、お嬢様のお声がいたしました。
「ねぇ、〓〓なの?」
「はい、お嬢様」
お嬢様がこうして夜に話し掛けてくださることは、これまで滅多にないことでございました。
「ねぇ、貴女は夜も物が見えるの?」
「えぇ、こうしてランプの灯りがあれば」
そう言ってランプを掲げましたが、金属の擦れる音は聞こえても、その灯りはお嬢様にはほとんど見えていらっしゃらないようでした。
「私の夜はね、真っ暗闇なの。何も見えないの。だから私は暗闇の中でじっとしているの。鳥と同じように。ずっと朝を待っているのよ」
お嬢様にとって夜の持つ意味が、私のそれとは異なることを、初めて知りました。
私にとっての夜は日中の疲れを癒すための泥のような眠りであり、一瞬で過ぎ去るもの。お嬢様にとっては長々しく、息を潜めて朝を待つための、深い孤独の時間であったのです。
「また明日の朝に」
「おやすみなさい。また明日」
今にして思えば、あれはお嬢様が本能で不安を感じ取ってのことだったのだろうと思います。
お嬢様が飛んだのは、その翌朝のことでございました。
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