鳥籠の中のライラック

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 今からもう五十年も昔の話でございます。  旦那様はあれから、家業を分家の方に任せ、このお屋敷で暮らし、罪の意識に苛まれたまま、生を終えました。  このお屋敷に仕えている間に、私の両親も旅立ちました。行く当てもない私は、このお屋敷に止まり続けました。  お嬢様のいない世界に未練などございません。ですが私はお嬢様の最期を見ておらず、今でもあの部屋に、あの寝台の鳥籠の中に、お嬢様の幻影を見るのです。幻は天蓋を捲ると消えてしまいますが、掛布を戻すとまだそこにお嬢様が居るような気すらするのです。  あれから私は、どなたのことも愛することができずにおります。  私にとってお嬢様との出会いこそ、初恋と呼べるものでした。どのように素晴らしい殿方に求婚されようとも、私は首を縦に振ることはできませんでした。  お嬢様のような人は二人とおりません。どなたもお嬢様のようにピアノを弾くこともできず、ましてや歌もお嬢様ほど達者でもない。求愛の歌の下手な雄に靡くことなどできましょうか。いえ、お嬢様以上でなければ、私には不可能なことでございました。ですから私は、ずっと独り身のまま、このお屋敷で生きて参りました。お嬢様のいない、生気のない、時間の止まったようなこのお屋敷で。  ええ、ええ、こんな春の日でございました。リラの花香る季節でございました。あの窓からお嬢様が飛んだのは。  今でもお嬢様の歌が聞こえるのです。甘い声で愛を囀るのです。きっとお嬢様は天使になって、あの小鳥と添い遂げたのです。  私も年老いました。日に日に死のひたひたと忍び寄る足音が聞こえてきます。望まぬ死が私を殺しに来る前に、私もお嬢様のように、自らの意思を(もっ)て、結末を選びたいと思うのです。  お嬢様と同じ春の日に。小鳥の囀りの聞こえるあの窓から。甘い面影に花を敷き詰めて眠ろうと思ったのです。  老婆の一人語りを聞いてくださって、ありがとうございました。どうぞ達者に暮らしてくださいませ。  それでは、ご機嫌よう。 -了-
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