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街を歩いていると、また頭上から歌声が聞こえてきた。他の人には聞こえないらしく、誰も気にしている様子はない。
前は僕もそうだった。空から歌が聞こえるなんて、おとぎ話みたいだと思っていた。
だけど今は違う。あの歌が聞こえるようになってから、いや空の歌のことを知ってから、僕のあり方は変わった。
高校生の頃、加賀美という友人がいた。普段はあまり目立たない男で、二年生に上がって同じクラスになるまで僕は彼の名前さえ知らなかった。
加賀美が僕の、いや僕だけでなくクラス全員の注目を浴びたのは始業式から数ヶ月が過ぎた頃だった。合唱コンクールを目前に控え、僕らは放課後まで歌の練習をさせられていた。
当時あまり歌に興味がなかった僕にとってそれは退屈な義務でしかなかったし、他の連中もあまり乗り気でないようだった。委員長だけは声を張り上げてみなを率いようとするのだが、それも担任の前で点数稼ぎをしているのが見え見えで、誰一人彼の言葉に耳を貸そうとしない。
そんな白けきった空気の中、ただ一人歌うことを楽しもうとしていたのが加賀美だった。
僕らはみな疲れきっていた。ずっと立ちっぱなしで歌わされていたのだから無理もない。もう日暮れも近く、窓から射す夕日が床を赤く染めていた。
「じゃあ今度は男子だけで歌ってみようか」
みなの神経を逆撫でするようにさりげなく、委員長が言った。これまでも「声が小さい」だの「まとまりがない」だのと散々文句をつけられていた僕らは一斉にため息をついた。
「明日でいいんじゃねえの? みんな疲れてるだろ。もう何やっても何も変わらないって」
桐山という男子がそう言ったのを皮切りに、僕らはみな口々に「これ以上は無駄だ」と訴えた。だが背後に担任が控えているのをいいことに、委員長は虎の威を借る狐よろしく「そんな気持ちだからやり直しになるんだよ」と居丈高に言った。
「変えようとしないから変わらないんだよ。そりゃ僕だって練習が楽しいとは思わないよ。一人でとか友達と一緒に歌ってれば楽しいだろうけど、こういうちゃんとした場で楽しめる人なんていないよ。みんな努力して勝ちにいってるんだよ。みんなそこが分かってないんじゃないかな」
まあ、もうちょっと続けてみようよ。最後に猫撫で声で言って、彼はまたピアノ担当の女子に合図を送った。険悪なムードの中、流れ出した優雅な旋律もどこか間延びして聞こえた。
最初僕らはでたらめに、声を荒らげて歌っていた。だけど曲が進むにつれ、まるで靄が晴れるようにみなの声や調子は揃っていった。加賀美がこれまでとは別人のように大きな声を出して歌ったからだ。明るくはきはきと、そして何よりも楽しそうに笑みを浮かべて。
あんな風に歌いたい。僕だけでなく、みなもそう思ったのだろう。曲が終わる頃には、僕らの歌声は教室どころか校舎中に響き渡る大合唱になっていた。
「すごいよみんな。やればできるじゃないか」
一人舞い上がる委員長を尻目に、僕らは加賀美の周りに集まった。桐山も彼を大いに称賛した。
「お前すげえな。なんか気がついたらめっちゃ大声で歌ってたわ」
親しげに肩を叩かれ、加賀美は照れ臭そうに笑った。普段あまり目立つ男でなかったのもあって、みんなが意外そうに彼の才能を褒め称えていた。
「すごいとかじゃないと思うよ。ただ歌うのが好きだから」
蚊の鳴くような声で加賀美は言った。謙遜している風ではない。顔を真っ赤にして否定していることからも、素直にそう思えた。
結局僕らはその後も一時間ほど練習を続けた。委員長にもそれが自分の手柄でないことは分かっていただろうが、彼自身明るい声で歌っていたから不満はないようだった。それどころか帰り際、加賀美に「今日は君のおかげで盛り上がったよ」と笑いかけていた。
ピアノの女の子も、わざわざ加賀美の前にまで行ってぺこりと頭を下げていた。うまく歌う人よりも、楽しんで歌う人の方が感謝されるものなのか。彼のお辞儀を返す姿を見ながら僕はしみじみそう思った。
それから僕らの加賀美を見る目は変わった。何しろ彼がいるだけで、退屈なはずの練習がカラオケ大会のように盛り上がるのだから当然だろう。実際にカラオケに誘う連中もいたが、加賀美は毎回丁重に断っていた。
「ごめん、カラオケは苦手で……」
小声で謝る彼はとても申し訳なさそうで、歌う時の明るい声や表情からは想像もつかないくらい控えめだった。
加賀美はあまり人との付き合い方が上手い方でなかった。これまで彼の歌唱力が目立たなかったのも、僕とそれなりに馬が合ったのもそれが理由だと思う。僕も人前に立つよりは、その人を応援する方が向いている性分だから。
とはいえ加賀美は僕なんかよりよほど芯がしっかりしていて、何事にも自分の考えを持っていた。僕がカラオケについて、苦手だと語った時のことだ。
「みんなに注目されてる感があるからね。まあ実際は人の歌なんて、みんな聴いてないと思うけどね」
言い訳がましいことを言う僕に、彼は「そうなんだよ!」と嘘みたいに大きな声を出して賛同した。
「普通誰も聴いてないし、歌う側だって誰かのために歌う訳じゃないんだよね。みんな好き勝手に歌ってる。でもそれでいいと思う。歌はいつだって一人のものだから。なのに人前で歌うと『見られてる、聴かれてる』って勝手に感じるから、誰かのために歌おうとするんだよね。たぶん歌うのが好きじゃないって人は、その感覚が強いんだと思う」
まくし立てるように彼は言った。そうしてふと我に返ったように、いつもの恥じらうような笑みを浮かべた。きっと彼の言う「見られてる」を感じてしまったのだろう。
「ごめん」
「全然いいよ。むしろ話してくれて嬉しいかな。加賀美君ってあんまり自分のこと話さないから」
僕が笑うと、あちらは「そうだね」と今度は控えめに同意した。
「いちいち人に言うようなことじゃないからね。ほんとは人前で歌うのも苦手なんだよ。この前はまあ、歌おうかなって気になれたんだけど」
そう言って加賀美は取り繕うように短く笑った。
練習の甲斐あって僕らはコンクールで優勝することができた。その結果、クラスでの加賀美の存在感はさらに増すことになった。
桐山が彼に一目置いていたのも大きかったと思う。スポーツ全般が得意で成績もいい桐山は学校の中でも目立つ方だったから、彼が話しかけたり名前を上げたりするだけで加賀美の株は勝手に上がっていった。正直なところ僕にはその変化が羨ましく思えたが、それでも妬むほどではなかった。
僕は加賀美とは家の方角が同じで、時には一緒に帰っていた。大抵の場合会話はあってないようなもので、僕がどうでもいいことを言って、加賀美が無難に笑うといった具合だった。
しかし彼がいつも笑ってくれていたかと言えばそうでもない。何を言ってもあまり反応せず、空を見上げてばかりいる日もあった。そんな時の彼は歌っている時よりもずっと楽しげで、今にも空に向かって声を張り上げたくなるような疼きがこちらにまで伝わってくるようだった。
ある日のこと、いつものように顎を上向けて歩いていた加賀美が急に鼻歌を歌い始めた。聞いたこともない曲調に、僕は「何の曲?」と尋ねた。
「聞こえない?」
うっとりした眼差しをこちらに向け、彼は問い返した。
「何が?」
「歌。ほら、空が歌ってる」
加賀美はそう言ってまた歌い出した。まるで自分の鼻歌に酔っているようだ。
「冗談言ってる訳じゃないよね?」
僕は加賀美にそう念押しした。相手が彼でなければ、笑い飛ばしていたと思う。すると彼はまた「見られている」を感じたように声を落としつつも、「うん」と首を大きく縦に振った。
「僕もたまにしか聞こえないんだけどさ、何て言うのかな、空の喜びみたいな曲が聞こえてくるんだよ。たぶん太陽の光とか、空の青さとかをそのまま曲にしたらあんな風になるんじゃないかな」
「さっき歌ってた曲だよね?」
「うん」
彼は無垢な子供のように空を仰ぎ、またその曲を歌い始めた。その陶酔しきったような横顔を、僕は黙って見つめていた。彼の歌う、穏やかだがあまり明るいとは思えない曲に落ち着かないものを感じながら。
合唱で優勝したクラスは県の大会に進むことになる。もちろん僕らは加賀美さえいれば大丈夫だと思っていたし、実際練習も最初のうちはうまくいっていた。
けれど回を重ねるごとに、僕らの歌は不揃いで事務的なものになっていった。加賀美が歌おうとしないのだ。それをさらに桐山が責め立てるものだから、悪循環というほかなかった。
「加賀美君、もうちょっとやる気を出してくれないかな」
桐山に便乗するように、委員長が彼を詰った。そうして「まずは個人練習だ」と言って、加賀美だけに歌わせようとした。
けれどいくら待ってもピアノは鳴り出さなかった。担当の女の子が鍵盤に目を向けたまま固まっていたからだ。
「何してるの。早く演奏始めて」
委員長はピアノの子を怒鳴りつけた。すると今度は桐山が「あんまり調子に乗るなよ」と委員長に掴みかかっていき、クラス一同騒然とした。
どうしてこんなことになったのか。ずっと苦しそうに顔を伏せている加賀美と、時おり彼に心配するような目を向けるピアノの女子を見ていると、なんとなくその理由も分かる気がした。
担任が桐山と委員長を引っ張っていって、その日の練習はお開きになった。みなが散り散りに帰っていく中、僕は窓から放心したように空を見つめる加賀美を待っていた。雲に覆われた夕空はどんな曲を歌うのだろう。
静まり返った教室に僕と加賀美、それにピアノの女子が残った。彼女は普段から加賀美以上に目立たない子で、僕はその時までその子の苗字しか覚えていなかった。彼女も加賀美を待っていたようで、一度こちらにちらと目をやってから窓際に近づいていった。「ミレイさん」と、加賀美が彼女の名前を呼んだ。
「今日はごめん。全然歌えなかった」
「ううん。頑張ってたよ。あれだけプレッシャーがあったら、私なら逃げちゃう」
「逃げても仕方ないよ。委員長が追いかけてくるから」
二人は窓辺に並び立ち、談笑していた。彼らがかなり近しい間柄なのは、いちいち目を合わせて話す様子からも伝わってきた。僕は教室の隅から、ぼんやり二人を眺めていた。
いつの間にこんなに仲良くなったのだろう。思えば僕は他の人よりは加賀美と仲がいい程度で、見て分かることや聞いた話以上のことは何も知らなかった。
「今日はどうしたの?」
ミレイさんの問いかけに、加賀美は口を閉ざした。そのままこちらが気まずくなるほど長い沈黙が続いた。もしかしたら二人で同じ空の歌を聴いているのかもしれない。そう考えるとうんざりした。窓辺に佇むミレイさんは夕日に包まれて、目のやり場に困るくらい綺麗だった。
半袖のシャツからむき出しになった腕も、長いスカートから覗く足もほっそりしているのに華奢でなく、大樹の枝のようにしなやかに伸びている。憂いた目も、きゅっと締まった唇も同じで、繊細そうな割に弱々しさを感じさせない。普段の教室での印象とはかけ離れたこの魅力を引き出しているのは加賀美か、それとも空の歌だろうか。
「もう歌えないと思う」
加賀美が沈黙を破った。
「なんで?」
鋭く問い返すミレイさんに、加賀美は「楽しくないと声も出ない」と寂しげに返した。
「次は大丈夫だよ。みんなちゃんと歌ってくれるって。私も頑張るから」
「いや。ダメだよ」
加賀美の弱気な発言を裏付けるように、後ろの方で誰かが咳払いした。振り返ると桐山が腕組みして廊下の壁にもたれかかっていた。ずっと説教されていたのだろう、顔が怒りに満ちている。だが彼が苛立っている理由がそれだけでないことは明白だ。
思えば桐山が最初に委員長の横暴を止めようとした時も、他でもないミレイさんを気遣ってのことだったのだろう。あの時一番つらそうな顔をしていたのは、重い空気の中でずっと演奏していた女だった。そして加賀美が急に大声でみなを率いるように歌い出したのも、その負担を取り払うためだったとしたら。
桐山と加賀美、そしてミレイさん。三角形を描くには、男の側があまりに不釣り合いだ。「歌わなくなった加賀美を桐山が責める」という図式も、彼らの視線の向かう先まで考慮に入れれば順序が逆だったのだと分かる。
桐山の嫉妬に燃えた視線に射られて、楽しく歌おうと思える者がいるだろうか。そしてミレイさんの庇護するような眼差しを受けて、意気込まない男がいるだろうか。前後から道を塞がれた彼に残されたのはそれこそ、空を見上げることくらいではないだろうか。僕を含めた三人の眼差しから逃れるように、加賀美は閉じた目を薄暗い空に向けていた。
その日以来、桐山はあからさまに加賀美を敵視するようになった。それも合唱の時間だけでなく、あらゆるタイミングを利用して貶めるのだった。
国語の授業では「何言ってるか聞こえない」。体育の授業では「もっと声を出せ」。昼休みには「今度カラオケで合唱の練習しよう」。声や歌にまつわることばかり言うのだから嫌らしさも一入だった。
ミレイさんもはじめは加賀美を庇っていたが、気がつけば二人に関わるのをやめていた。そして僕はというと、彼女と同じく加賀美と距離を置いていた。巻き込まれるのが嫌だったから。それに僕より彼と親しかったはずのミレイさんが既にそうしていたから。
そして何よりも、そこまで守りたいと思えるような関係ではなかったからだ。僕が加賀美との繋がりを通じて求めていたのは寡黙な人気者と仲良くできることの優越感や、空の謎めいた歌を共有することだった。もしそれらが心から守りたいと願えるような絆に通じていれば、僕だって彼を見捨てなかっただろう。
だけど実際はすぐに諦めがつく程度のものだった。巻き添えを食うくらいなら罪悪感を抱えた方がいい。僕はどこまでも打算的で、取り返しがつかないほど傍観者だった。
県の大会が近づき、僕らは暗くなるまで練習をさせられていた。もう誰一人まともに歌おうとせず、委員長も上手くするためでなく、早く終わらせるために歌わせたがっているようだった。
「こんなんじゃいつまで経っても終わらないよ」
彼の苛立ちに満ちた言葉も、ただ担任に渋い顔をさせるだけだった。声を出さない者もいれば、わざと調子を外す者もいる。そんな淀んだ空気を引き裂くように、ピアノが激しい音を鳴らした。
「みんな一回でいいからちゃんと歌ってください!」
まっすぐ立ち上がり、全員を見渡しながらミレイさんは言った。そして委員長の指示も待たず、彼女は演奏を始めた。
みなが意外そうに顔を見合わせる中、僕は加賀美に目をやった。彼は顔を伏せて口を固く結んでいたが、歌うパートが来るや教室中に響き渡るような声を出し始めた。
上手いとはとても言えず、楽しそうでもない。切なくて寂しい、あの鼻歌を思わせるような歌声は、かえって僕らを黙らせた。とても一緒に歌う気にはなれない。けれど聞き流せない。伴奏するミレイさんもつらそうな顔をしていたが、文字通り彼のためだけにピアノを弾き続ける姿はとても勇ましかった。
加賀美が歌い終えると、担任はもう練習をやめるよう指示を出した。そして加賀美に「頑張ったな」と労いの言葉をかけた。その一言が本人にどう届いたかは分からない。けれど加賀美に近寄るかどうかで迷っていた僕の胸には鋭く、重く響いた。
桐山が帰り、委員長が帰り、ミレイさんが帰り、みなが帰った。僕は加賀美に「帰ろう」と声をかけた。ずっと目を窓の外に向けていた彼は、夢から覚めたように「うん」と頷いた。
空にはもう月が昇っていた。僕らは二人、並んで歩いた。こちらから関係を絶っていた手前、あまり込み入った話をする権利があるとは思えない。かと言って黙り込むのも気まずいから、僕はどうでもいいようなことばかりを話した。加賀美は空を見上げているばかりで、何の反応も示さなかった。
ふと、加賀美の口が小さく動いているのに気づいた。
「その歌、歌詞があるんだ」
僕は空を指差しながら、わざとらしく笑った。彼は少し考えて「いや。今のは合唱の歌」と返した。
「空の歌に歌詞はないよ。あるならもう歌ってる。やっぱり声に出して、気持ちを言葉にして歌うのが楽しいよ。さっきだって、僕はけっこう楽しかったんだよ」
彼はそう言って恥ずかしそうに笑った。彼らしい笑顔だ。僕はつい気を緩めて、「ピアノも頑張ってくれてたよね」と口走った。途端に加賀美は表情を曇らせた。
「申し訳ないんだよね。嬉しいけど、困る」
「困る? なんで?」
「巻き込むからね。みんなと一緒に歌えるのは僕も嬉しいし、楽しかった。だけど、つらいことを誰かと一緒にやっても仕方ないよ。そっちは一人じゃないと」
夕闇に語りかけるように、彼は語った。加賀美には人と間隔を空けて歩く癖がある。それが彼の距離感なのだろう。楽しみは共有できるがつらさは占有する。きっとミレイさんからは加賀美の方から離れたに違いない。
僕は加賀美の方を向いた。彼はまた空を見上げ、今度は歌詞のない鼻歌を歌い出した。あの物悲しい空の歌を。僕は構わずに頭を下げ、「ごめん」と詫びた。
「都合が悪くなったら逃げ出して、本当にごめん」
「いいよ」
彼は歌うのをやめて、僕に笑いかけた。
「仕方がないと思うよ。それにつらい時は誰かと一緒にいても、いなくても同じだよ。つらさとか悲しさって一人のものだから。いや、『見られてる』って思わないだけ一人の方がマシかな。見られてたら強がるからね」
その言葉こそ強がりだ、本当は一人で抱えたくなんかないんだろう。僕はそう怒鳴ってやりたかった。だけど叶わなかった。怒ることが、彼の考えをねじ伏せることがどうしてもできなかった。
彼はまた上を向いて歌い始めた。あまりに寂しそうな空の歌を、僕は共有することができない。僕には聞こえないから。そして加賀美の言葉通り彼の歌は彼だけのもので、横から割り込むものではないから。
加賀美はまるで空に語りかけるように歌った。その横顔は街灯の光に照らされて、儚くも楽しそうだった。
翌日から加賀美は学校に来なくなった。引っ越したのか、それとも本人が来たがらなかったのかは分からない。みなも同じらしく、特に桐山は知りたくもないようで加賀美の名を聞くことさえ拒んでいた。
ミレイさんはまた元の通り、目立たない女子としてピアノの役を続けた。県大会はもちろんうまくいかず、みなそれを合図にするように加賀美を話題に出さなくなった。
僕もそれきり彼とは一度も顔を合わせずに高校を卒業し、地元を離れた。そうして大学を出て、今に至る。
あれからだいぶ時間が経った。高校生の頃とは住んでいる場所も違えば環境も違う。それなのに、街を歩いていると空から歌声が聞こえてくることがある。それも当時の加賀美の声で。
か細く寂しく切ない、けれど楽しそうな空の歌。これが僕だけの耳に聞こえているのか、それとも聞こえる人には聞こえるものなのかは分からないが、僕は加賀美と違って小声で歌うつもりはない。歌が一人だけのものだとは思いたくないから。
一人が好き勝手に歌えば、みんなもつられて歌う。たとえ一人ひとりの事情が違っていても、通じ合ってなんかいなくても、そのまま広がっていくのならそれが繋がりなんだと思う。
加賀美にもそう伝えたかった。そうすれば彼も恥ずかしがりながら、一緒に歌ってくれたかもしれない。声に出して、言葉にできる歌を。
僕は空を見上げた。遠い雲間からまっすぐに陽が射している。歌はやまない。僕は歩く。陽の射す方へ歩く。僕は今、暇を見ては駅前やライブハウスで歌っている。
いつか空の歌に歌詞をつけて大声で歌いたい。そうすればみんなで一緒に歌えるだろう。その「みんな」の中に加賀美がいることを願って、僕は今もこれからも前へ歩いていく。
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