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出勤する直也の唇に「いってらっしゃい」のキスをすればその温もりの向こう側に蔵之介を感じた。「おかえりさない」と雨の匂いがする直也を抱きしめればあの夜自転車のキャリアに跨って蔵之介の背中にしがみついた夏の湿り気を思い出した。
「どうしたの、ぼんやりして」
ガスレンジの上で鍋蓋が音を立て、周囲に吹きこぼれていた。
「あ、ごめん寝不足かな」
「昨夜もうなされていたよ」
「えっ、ごめん煩かった!?」
「それは良いんだけれど、莉子、悩み事でもあるのか?」
心臓が掴まれた。何気なく普段通りに振る舞っていたつもりだった。
「ないよ、あるわけ無いじゃない」
「そうだよな、莉子は1日中家の中だもんな」
「酷っ!」
「嘘ウソ、買い物くらいは行くよな」
「それ褒め言葉じゃないよ!」
「ごめんごめん」
私は英字新聞の紙飛行機を手にしたあの土曜日から直也の笑顔を真正面から見られなくなっていた。
(なにもしていないのに)
2階のクローゼットのクッキー缶に仕舞われた蔵之介からの恋文と恋情、そして携帯電話番号。
(なにをする訳でもないのに)
私は携帯電話の電話帳に蔵之介の電話番号をKという名前で登録した。
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